Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考と現実 01

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思考が現実を作るってねー。
言うじゃないですか。

ま、現実を思考が作るというよりは、
現実ってなんやねん?と言いますと、
僕らは普段、現実というものを色づけされた世界で見ておりますのでねー。
本来は無色透明なんですが、
それだと見えませんので、何かしらの色をつけてるんです。
で、なんでもない物に思考で色付けしたものを現実と呼んでいるわけです。

なので、人によって現実は違うわけです。
それは何が違うのかと言うと、色づけが違うだけで、見てるものは同じなんですよねん。

 

見ているものは同じなのに、色づけはちがう。
つまり、僕らは色づけの方だけを見ていて、そこだけを現実だとしているわけです。

そうそう、ちょっと話が逸れますが、
カエルは動いているものしか見えないそうです。
よく蛇とカエルの睨み合い。
なんてシーンがありますが、それは蛇は止まっているとカエルには見えないんですよね。
なので、そーっとカエルに近づくわけですが、その時カエルは蛇の動きを察知して見ようとするわけです。
すると蛇はピタッと動きを止めて、カエルの隙を伺います。

あれ、止まることによって隠れてるんですよね。
カエルから。

ま、つまり、カエルは動くものをみて捉えているわけでして、それがカエルの本能です。
人は五感を通して世界を感じ取り、そこに仮想のストーリーを作り上げることを得意としています。
このストーリーを共有することによって社会性というものを作り上げることが人の本能なんですねー。
同じ起こることでも、人によっても違うし、生物によっても捉え方は違うわけです。
そして僕らは捉えたものを現実として扱ってるんです。

何かで読んだんですが、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとの違いはほとんどないんだそうですが、喉の仕組み、構造に少々違いがあって、ホモ・サピエンスのほうが、より精細な発音ができた。
なんて記述を読んだことがあります。

つまり、会話を使ったコミュニケーションがホモ・サピエンスの方がより豊富に表現ができたと言うことですね。
つまり仮想のストーリーを共有する機能に優れていたんです。
これが、今現在、ホモ・サピエンスが人類の中で唯一残り、そして繁栄した原因になっており、そして、この繁栄とともに、僕らは「苦」という原罪も同時に持ってしまった。
とも言えるかもしれませんねー。

あ、ちなみに何度も言ってますが、「原罪」とは、的外れという意味です。
罪人とか、悪いっていう意味ではありません。

つまり「苦」という的外れな誤解をストーリー上で作り上げちゃう本能を持っている。
ということになったりしがちだよねー。ということです。

さてさて、思考と現実についてもうちょっと書いて見たいと思いますが、
ちょっと長くなってきたので、明日に続きます。

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