おーきにー。
って言葉がねー。
関西だと便利なんですよねー。
ありがとう。だとちょっと照れたり、大げさな気がするけど、
おーきにーってゆーとけばだいたい良い感じに落ち着くっていうのがありますので、
便利なんですよねー。
ま、そんなわけでおはようございます。
タクさんです。
今日は、パラドックスについて書いて見たいと思います。
僕らは、何かを知る。
何かを認識する。
というのにどうするのか?
というと、分離して整理をするという方法を取っています。
つまり解釈ですねー。
そして、
わかるということは、分離をして整理し、納得すること。
だというのがもう染みついているんですよねー。
ほんとは、わかるということについては、
それだけじゃないし、直感的にわかるというのも、
あったりするわけで、
分離をして整理をするというのは、
あくまでも一つの方法でしかないわけですが、
分離して整理し納得する。
これがないと「わかった」にならないよ!
と信仰している。
とも言えるのかもしれません。
わかるというのは、正解を探るということだと、
僕らは信じていたりもするわけですが、
実際には、正解も不正解も存在していません。
ですが、
あらゆることには、
正解と不正解がある。
という、これもまた思い込みの一種であるわけですが、
この思い込みが思いっきり染みついていることが、
分離をして整理をしている。
しかもこの分離は便宜上のものでしかない。
ということに無意識になっている所以なのかもしれませんねー。
真実は、解釈することはできず、解釈は真実を解き明かすことはできない、
— taku (@TakuTakuteto) August 26, 2019
真実は知識によるものではなく、知識は解釈なしに成り立たたない。#真実 #解釈
いわゆる僕らが知るというのは、わかる(解釈を採用する)ということですが、
真実というのは、
「正解も不正解もないよねー」
ということ。
分離は存在しない。
だから真実は、正解なのか不正解なのか?
という分離を用いて求められるものではない。
ということでもあるので、
「知る」という
分離をして整理する。
という方法で、真実を解き明かすことはできない。
ということなんです。
つまり、真実を知ることはできないわけですが、
すでに真実にあることに気づくことはできるんです。
なぜなら、真実というからには
そこから逃れることも、逃れたことさえもないわけで、
あらゆることは真実以外の何物でもないからです。
ただ、知ろうとしたりすると、それをイメージの中で歪めてしまうことになるので、
ここは一旦、知識を知識として置いておかなきゃならないわけです。
僕らは解釈を真実として扱う癖があります。
解釈とは分離して整理して正解だとみなした解釈です。
これを真実と扱うことで、
解釈に振り回されちゃって、真実を見失うんです。
そして、わかろうとすればするほどわからなくなるというパラドックスに陥るわけですが、
わからないままでいてみる。
そこにゆったりとリラックスしてみることで観えてくるのが、
わかろうとしていた仕組み。分離し整理されたものはすべて仮想イメージである。
ということなんですねー。
これが、目覚めなんです。
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