ほーい。
おはようございます。
タクさんです。
どうしたらうまく自分をコントロールすることができるのか?
きっと僕らが欲しいものってこれなのかも知れませんねー。
本屋さんなんかをのぞいてみても、
自分コントロール術の本ってすんごく多いと思います。
ダイエットなんかもそうですよね。
どう自分を制御し、コントロールするのか?
様々な方法が書かれています。
ビジネス書でもだいたいがその内容です。
この様々な方法とは解釈の方法なんですよね。
僕らは常に、どう解釈すれば良いのか?
この解釈方法を学ぼうとしちゃうんです。
「私はいない」という言葉を聞いたとしてもね。
もしそれを知れば、とても楽になれそうだ。
って思っちゃいます。
そして、そう思えるようになろう。
そう解釈できるようになろうとしちゃうんです。
私がいないを知ることで、私は私をうまく管理できるようになり、
楽になれそうだ。
ってね。
そう考えちゃうんです。
ま、そう考えちゃうことはなんら悪いことではありません。
思考はそう考えるのが当然だからです。
この考えを起こしているのは自分じゃありませんので、もうそれで良いんですが、
それで良いっていうふうにもなかなかなれなかったりもするもんですよねー。
ここで問われるのが、わからないままにしておくことになるんです。
自分というのも解釈ですし、時間というのも解釈です。
行為者もいたことがありません。
だから、自我がないこと、私がいないこと。
行為者がいないことに時間がないこと。
これらを解釈しようとしても仕方のないことなんです。
解釈を欲しがり、それを得られたとしても、結局その得られた解釈によって、また次の疑問が出てくるんですよね。
なぜなら全ての解釈は片手落ちだからなんです。
完全な解釈っていうのは存在しないんです。
なぜなら解釈は、何でも無いものを分離させなきゃはじまらないからなんです。
分離して、不完全になものにしないことには解釈を作ることはできません。
なので、全ての解釈は分離し、不完全なものになっています。
なので、解釈はすべて片手落ちになるんです。
そして僕らは、そういった様々な解釈をこねくり回すことで、思考のストーリーを作り上げます。
これをしている間だけ、ダイレクトなそれそのものを、
忘れているだけなんです。
映画を見ている時に、その内容に引き込まれて日常を忘れるのと似た感じです。
どんな時にも、今ココに椅子に座ったおしりの感触があり、
地面に触れた足もとの感触があるわけです。
この感触はとても平凡で、なんの意味もないものとしてスルーされていますが、
今、ここにあるもの。それだけが事実であり真実であり、それ以外のことは無いんですよねー。
でもなんでもない平凡なものは解釈すらできません。
解釈すらできないことこそが事実であり真実なんですが、
僕らは、解釈を通さないとわかることができないので、このジレンマに苦しむわけです。
なので、もうわからないままに在って見るしかないんですよね。
そして、このわからんでいいが許された時、イノチの実感が目覚めるんです。
それは、解釈を探し求める探求という囚われから解放されるからなんです。
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