Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

好きなものを受け取る

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ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん。
好き嫌いはありますでしょうか?

ぼくはねぇー。
結構なんでも美味しくいただきます。

ほっておくと、お寿司ばっかり食べちゃいがちですが、
なんでも好きです。

ただし、トマトジュース!!!
こいつだけはダメだ!

ほんと不思議なんですが、
トマトジュースだけは飲み込める気がしません。

思いっきり体が拒否をします。

トマトスープとかは、飲めるんですけどねぇ。。。

 

まあ、子供の頃は嫌いであっても、
栄養があるんだから我慢して食べなっさーい!
って怒られたもんでした。

でもねぇ。

全く栄養がないどころか、毒にしかならないもの。
そんなものは、誰も好き好んで食べないですよねぇ。

でも、そういうものばっかりを僕らは受け取り、吸収しているかもしれないんです。
無意識にね。

それが、条件なんです。
条件の中でも自分を責める条件ね。

僕らは受け入れた条件によって、判別、判断という分離を行います。
分離とは条件に基づいているわけです。

僕らは栄養のない毒にしかならない条件を自分に受け入れ、
そして自分を傷つける。
どんなことを無意識にしていたりするんです。

なぜか受け入れなければならないとさえ思っていたりします。

ま、なんだかんだと人から言われたとしても、
結局それを受け入れるのかスルーするのかっていうのは自分次第ですからねぇ。

無尽蔵に受け入れなきゃならないわけじゃないんです。

まずくて栄養もないものを受け入れるというのは、自分で自分を鞭打つのと同じです。

自分で自分を鞭打つことはやめちゃおう。
と決めてさえいれば、
わざわざ自分で鞭打つことなんてありません。

そして、自分に鞭を打つことができるのは、
自分だけなんです。

傷をつけるのもそれを癒すことができるのも、
それは自分だけなんですよねー。

あなたが許すべき存在もまた、自分だけなんです。

誰しも自分の中に見たくない自分がいたりします。
認めたくない自分もいることでしょう。

そんな自分をあなた自身が許すんです。

他の人に許してもらう必要はありません。
自分が許しさえすれば、
それは全てすでに、そして完全に許されていたことを
僕らは見せつけられるんです。

くはぁー!
マジか!自分だけが自分を許してなかったんか!

ということを発見するんですねー。

見たくない自分。
認めたくない自分は、いく重ものヴェールに覆い尽くされていたりします。

このヴェールとは、一見とても説得力のある言い訳のようなものです。
あの手この手で、認めたくない自分は自分の奥にしまいこまれていますが、
同時に、その自分に光を当てたい、許されたいという強い思いも持っていたりするんです。

僕らがしんどく感じるのは、その葛藤だったりするんです。

葛藤は許せん!が大元の原動力になっています。

そして、許すまじ!という条件もまた、自分が掴み取っている条件なんです。

いろんな文化に触れ、許せないと思っていた自分の条件が全く許されることを知ったりすると、許していない自分が解放されたりするのもそういうことなんですが、

そもそも、条件自体に苦しむのは本末転倒なんですよね。

条件というのは、僕らがこの世を遊ぶためのルールのようなものです。

この世とあの世というものが分離されて存在するというわけでもなく、

おなじものなんですが、
僕らはあの世という全体の中で、この世という個別性の夢を見ているようなもんです。

この夢を確立させるためには個別性の概念。
つまり分離が必要だというだけなんです。

この分離の線引きを含むルールがあらゆる条件なんです。

個別性の夢は、遊ぶために起こっています。

僕らは条件で縛る遊びをしているんです。

スポーツと同じようなものですねー。

だからと言って、そのルールで自分に鞭を打つ必要なんて
どこにもないんです。

 

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