Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あるのか?ないのか?

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おはようございます。
タクさんです。

僕らに結構根強くあるのは、

「あるのかないのか?」
といったようなこだわりなんですよねー。

よくね。
「私はいない」
という言葉に結構混乱している方もおられると思うんですけどねー。

それって、
あたりまえにいると思っていた「私」がいない???
どゆこと???

ってことなんだと思うんです。

「いやいや、、、いるじゃん。」

ってなりますもんねー。

そもそも、
「ある?」「ない?」
というのも、単なるアイデアにすぎないといいますか、、、。

あらゆることに、「ある」も「ない」も無いんです。

「ある」「なし」の判断っていうのは、思考の中だけでしか使われない概念なんです。

 

つまりは、私はいるでもいないでもないわけですが、
僕らは何かを何かと認識する時は、何では無いのか?
を決めることで、境界線を引くわけです。

つまり、「ある・なし」で架空の境界線をひくわけです。

だから、何があるのか?何が無いのか?
というのが、
とっても気になったりするんですよねー。

なんとか線引きをしないとつかみとれないですからね。

そして僕らは、何かを掴み取ることで、わかったこととなり、
そして、わかることで理解できると思い込んでいるというわけですねー。

そして、わかるための条件付け。
つまり、どこで「ある・なし」の境界線を引くのか?
この条件付けに対して、より正しい、より正確な条件付けを探し求めちゃうというわけなんです。

でもそもそも、この「ある・なし」が境界線を引き、その境界線が分離という錯覚を生み出しているというわけです。

そして、何かを掴み取るための分離感が、自分は何かが足りないという思いを生じさせているんです。

皮肉なことに、その錯覚が、幸せを求めるんですよねー。

変な話なんですが、分離して何かをつかもうとしなけりゃ、
もうここに不幸は無いんです。

ぼくらは分離をすることによって、もともと無い不幸を生み出してるんです。

しかもね。
もともと無いものというのは、作り続けない限り生じないんです。

でも、何かを掴みたいあまり、分離をイメージ上で作り上げ、
そしてその分離によって足りなくなってしまった何かを求め続けている。
というパラドックスが起こってるんです。

何かを分離させて掴み取り、それを共有することができるというのって、
とっても高度なことなんです。

僕らはそんな高度なことができるあまり、
その高度すぎる世界観に自らハマっちゃってるというわけなんです。

つまり、僕らは高度な仮想現実を作る技術があるがゆえに、
自らが作った仮想現実にハマっちゃうというわけなんですねー。

僕らが作る仮想現実は、分離の概念を元に作られていますので、
そうやって分離された分、もともとあったものが見失われているんです。

そして、その錯覚によって、自らが苦しんでいるということなんですよねー。

それをね。錯覚の中の思考の世界で納得させる必要はないんです。

へぇ〜。
そうやって世界を掴んじゃってるんだー。
ってね。
知るだけでいいんです。
自分の中で確かめてみるんです。

感覚としては、ちゃんと自分のものにしなきゃならないという衝動が起きるもんなんですけどね。
そこはぐっと我慢して、僕らは、なんでもないものを有るとみなして掴み取ることによって、わかった気になってるよねー。

ってね。
単に観てみたらいいんですよねん。

みるコツとしては、
お気楽ポンチでいることです。

お気楽ポンチでいられないこと。
これが掴んでいるなにかしらの観念の仕業なんですねー。

 

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