Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

エゴの隠れた動機

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エゴの隠れた動機はつねに同じだ。

目立ちたい、特別でありたい、支配したい、力が欲しい、関心が欲しい、もっともっと欲しい、ということである。

それにもちろん、自分は別だという感覚を感じたい。つまり相手、敵が必要になる。

〜「ニュー・アース」(p92)より〜

 

はい。
おはようございます。
タクさんです。

冒頭の引用元になっているニュー・アースという本は、エックハルトトールという有名な非二元メッセンジャーの言葉です。

ニュー・アース

ニュー・アース

 

エゴっていうのは、まあ、ぼくが言ってるところの自我ちゃんのことですね。
自我ちゃんっていうのは、「自分」っていう観念のことです。

また、思考というのもまたエゴの一部ということになるんです。

まーとはいっても、なんでそんなに支配したいのか、特別でありたいのか?
ってことなんですよねー。
「あー、邪魔やんそんなーん。」
ってね。
思われる方もおられるかもしれません。
というわけで、この辺について今日は書いてみたいと思います。

 

 

エゴも自分も自我ちゃんも思考も一緒なの?

思考もエゴの一緒?っていうとちょっと変な感じになるかもしれませんが、
なんていうか、僕らはいわゆる世界観を掴み取るのに、どうしても自分というのを作らないと始まらないんですよね。
だから、「自分」という概念を作るわけなんですけど、この自分っていうのがそもそも思考なんですよねー。

思考を自分と呼んでいるし、思考をエゴと呼んでいるし、
またエゴを思考と呼んだりもするわけですが、これらは全部一緒なんです。

そして思考の中にいい思考も悪い思考もありません。

良いと悪いに分けるという働きもまた思考の働きなんです。

この思考っていうのは、誰かがコントロールというわけではありません。
ただ、思考のストーリーの中で行為者という自分を作っているんですよね。
で、その自分が思い通りにならないことについて、悩むわけです。
自分が思いを作っているわけではないので、思い通りにならないのは当然といえば当然なんですが、自分が思いをコントロールしているという思い込みがあるので、
これがうまくいかない時に悩んじゃうんです。

自分を満たすために自分が消費されるというジレンマ

さて、この自分と概念は、目の前にある全てを分離させないと構築できません。
自分とは思考によって紡ぎ出されるストーリーを作る上でどうしても必要な要素なんですが、この要素としての自分は全てを分離し整理整頓されたパーツの一部となるんです。

そして、本来僕らは、全てそのものなんですが、この全てそのものの感覚を分離した自分という枠に詰め込んじゃうんですよね。
そうなると、途端に、今までは完璧で足りないものがない全てであったはずの感覚が、自分という枠にはめこまれちゃうことによって、全てであり完璧であるという感覚を失ってしまうんです。
自分よりも広大な外側をイメージでつくってしまうから、
あれ?完璧であったはずの全てが途端に足りないという錯覚に陥ってしまうんです。

そうなると、自分が損なわれると、全てを失う!みたいなね。
そんな恐怖をも錯覚の中で演出しちゃうんですよねー。

足りない自分をどう埋める?

この恐怖が足りない自分を許さず、どう埋めれば良いのか?と探究を繰り返すことになります。
でも、何を手に入れても埋められることはないんですよね。
なぜなら、この探究をしている時点で、もう全てを分離させ、自分という枠を作って、
足りない自分という思い込みをすでに演出してしまっているからなんです。

僕らはすでに全てであるので、本来は埋める必要はありません。
埋めようとした時点で、分離をガッチリ掴み取っています。
だから、足りないという思いが演出され、埋めなきゃならないという探究が生じているわけです。
なので、埋めようとすればするほど、足りない自分を再確認していることになっているんです。

これが、悪循環のようになっているんです。

わからんで良いし、アホで良い

この循環がいわゆる輪廻であり、
この循環から抜けることがいわゆる解脱だというわけですねー。

では、この探究の循環から抜け出るためにはどうしたら良いのか?
というと、抜け出ないことなんです。
足りない自分を埋めなくて良いということを知ることなんですよねー。

僕らは何かを掴み取ることで足りない自分を埋めようとしています。
ですが、掴み取れば取るほどに、足りない自分を再確認してしまうことになります。

でも、掴み取らないでいると、いつまでたってもわからないままだ!
という思い込みがあるんです。

だからねー。
なんていうか、自分がわからんのなら、わからんで良いじゃん!って許してあげるのが良いんです。
なんなら、自分は足りないアホで良いと許してやれば良いんですよね。

そもそも、アホじゃないことを知るのに、まずは100歩譲って、一応アホでも良いって許してやろうやないか!っていう試みですねー。

この試みがうまく効くと、アホもかしこも無いじゃん!
わかるもわからないも無いじゃん!
という真実が目の前にあらわになってくるんです。

そもそも無いものをあると思ってたから、自分は特別じゃなきゃならない!っていう勘違いをしていたというわけですねー。

 

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takuteto.hatenablog.com

  

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