Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

分離と自分という錯覚

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【はじめに】

はい!
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさんお元気でしょうか?

見かけの世界と真実の世界。
とか、
色と空。
自我と真我。

みたいなねー。

そんな言い方があったりしますが、
これって別に分かれているわけじゃないんですよね。

なーんか、言葉のあや。
みたいなものでね。

実際に色と空のような分離は存在してないんです。
自我と真我というのも同様で分かれてないんです。

だから、自我やエゴを捨てることで何かいい感じの世界に到達しよう。
ってやったとしても、それもまた自我ちゃんの働きであって、
おんなじところでぐるぐると回ってるだけ。
みたいな感じになっちゃうんですよねー。

 

【自我ちゃんの働きと分離】

見かけの世界や色や自我にエゴ。
これらは全部同じものです。

ものと言うよりは一つの働きと言った方がいいかもしれません。

どういった働きかというと、
目の前のものを別のものに変換して掴み取る。

みたいなね。
そんな働きなんですよね。

なんでもないものを何かに変換するというわけです。

あらゆるものにラベルを貼って意味を付与する。
みたいなことですねー。

山を山と呼んだり川を川とよぶのもこの働きの一つですね。
もともとは山も川もなくなんでもないものなんですね。
ま、これをここではたまに自我ちゃんの働きと呼んでいるわけですが、
呼び方は別になんでも一緒です。

エゴでもいいし、思考でもいいし、見かけでも色でもいいんですが、
同じ働きです。

このラベルを貼って意味を付与するという働きが、いわゆる分離というやつなんですよね。
僕らはなんでもないものを分離を通してみているんです。

【分離が足りない思いを錯覚させる】

この分離の働きがね。
足りないという思いを錯覚させるんです。
そしてその錯覚は、連想を呼び、命の危機という錯覚を生むわけです。

この危機感に対して僕らは「苦」を感じるということなんですよねー。

足りないという錯覚は以下のように発展していきます。

足りない

私は何かが欠けている

欠けているから欠点である

欠点があるかぎり自分を適切に守れない。

みたいな感じです。

この足りないの部分に、状況によっていろんなものが入るって感じですね。

人に嫌われていると感じた時だったら、
「自分は人に好かれるための何かが足りない。」
といったものが入ったりするわけですね。

他には地位が足りないだとか、能力が足りないだとか、
容姿が足りないだとか、

みんなもう結婚してるのに、
みんな持ち家なのに、
みんな就職してるのに、、、。

みたいなものが入るというわけです。

分離はなんでもないものを分離させる。つまり分けちゃうわけですが、その際に「自分」という概念も登場し、その自分が分離されたもののどちらかに属することになるわけなんです。
それが劣っている側に属していると感じた場合に、この劣っているとする分だけ足りないという思いを錯覚させる。
というわけですね。
ややこしいですね。

【全部独り相撲】

しかも、この分離も自分でやってれば、分離した際にどれくらい劣っているのか?というはんだんもまた自分でやっており、その劣っている分だけ足りないと決め付けているのも自分なら、そこで落ちこんだり恐怖を感じているのも自分っていうね。

まさに壮大な独り相撲をぜーんぶ自分がやっているんですよね。

この自分とは、分離の最初の方に現れる概念なんですよね。
概念なので実際に存在するものではないんです。

足りないという思いは、なんとかしようとする働きを誘発させるわけですが、これもまた独り相撲を継続させるということになるというわけです。

だから、一旦、この自分そのものを置いておいたらいいんです。
そもそも、無いから置くも置かないもないってところがオチャメだったりするんですけどねー。

 

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