Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

もしも、この世に比較がなかったら。。。

f:id:takuteto:20190116130011j:plain

おはようございます。
子供の頃はテレビに向かって「シムラー後ろ〜!!!」
って叫んでたタクさんです。

ドリフの8時だよ全員集合。ですね。
知らないお若い皆様スミマセン。

子供の頃は腹抱えて笑ってましたねぇ〜。
おかんに、
「なんで志村ってあんなにアホなん??」
って聞いた時に、
「あの人は賢いからアホがやれてるんや!」的なことを言われて、
???ってなったことを覚えています。

この言葉の真の深みについては、最近になってやっとわかってきたような気がします。

さて、
ドリフのコントによくあったのが「もしも」シリーズですね。

「もしも、〇〇な◼◼があったら」というテーマのコントで、
だいたいは、いかりや長介扮する主人公が、あれやこれやでひどい目に合わされて、
最後に「だめだこりゃ」という台詞で終わるというコントです。

なんだかなつかしいなぁー

ま、コントの話はおいておいて、「もしも比較の概念がなかったとしたら?」
どうなっちゃうんでしょうね?

今日は、
そんなことについて書いてみます。

 

比較の概念ってね。
なんかとっても主観的な概念だと思いません?

比較ってルールが必要なんですよね。
比較をする上での大前提です。

ルールという架空の設定。
これを共有しておかないと比較って成り立たないんですよ。

つまりは、ルール上で遊ぶゲームのようなもんです。

そして、ルールは、きめたもん勝ちなんです。

ギャンブルは胴元が一番もうかるんやでぇぇー。
ってことですね。

株の売り買いだって、証券会社が一番儲かるのと一緒です。

ちなみに宝くじは胴元が半分くらい持っていってますので、ほとんど一人勝ち!の様相です。

さて、
もし、僕らが比較の概念を採用しないとしたならどうなるでしょう?

何かをするにしても、こっちのほうが儲かるとか、こっちのほうが得とか、
そういう概念を採用できませんからねぇ。

好きなことをする以外ないですよね。

もっというと、こっちのほうが好きかなー!って選ぶことすらできなくなります。
それも比較になっちゃいますからねぇ。

となると、もう目の前のことをノリでやっていくし、ノリでやめる!
ってことになってきますよね。

こんなにいい加減でいいのだろうか?
なんて思考がわく余地もありません。

だって、どっちが良くてどっちが悪いなんてものすらありませんからね。
いいのだろうか?を考える余地もありません。

そして、調子の善し悪しで悩むこともできなくなるかもしれません。
良いときと悪いとき。
これもまた、比較によって成り立ちますからねぇ。

あの頃は良かった。。。みたいなセリフも言えませんよね。

つまり、もう今目の前のことをノリで乗っかる。
これだけになっちゃいます。

さてさて、、、
これはあくまでも、
「もしも、比較の概念がなかったら」という例え話だったわけなんですが、、、。

もしかして、、、、。

もしかしてもしかして、、、、。

もしかして!!!!

「比較」ってホントに無いんじゃないのん??
ってことなんですよ。

僕らは勝手に比較という概念に真実性を感じていただけで、
実はそんなルールに真実性なんてちっともなかったんじゃないのーん???

ってね。
思ったりしません。

もしかしたら、比較の概念っていうのは、単なるルールで、
その比較の押しつけはポジショントークのような、ルールを作った側の都合のいいルールがずっと継承されてきたようなものだったんじゃないのーん??
ってことですもんねぇ。

だとしたら、比較のルールによって巻き起こってきた、今までの悩みって、
もしかして必要のない悩みだったりして、、、。

男らしさ。
女らしさ。
社会人として。
大人として。
私はイケてない。
私はダメだ。

そやって悩んできたものが、もしかして悩まなくても良かったようなことだったりするんです。

かーっ。
なんだかみなぎってきませんか?

馴染む・・・馴染むゾォォォォ!!!!

というわけで、テンションが変になってきたので、今日はこの辺でー。

タクさんセッション。受付中でございます♪

takuteto.hatenablog.com