Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

不安のリフレイン

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悪ガキだった小学生時代なんですが、友人数名と、近所の山で探検ごっこをやってたんですよ。
で、普通の山道からそれて、林の中に入っていって、倒木をつたって川を渡ったり、動物の巣らしきものをみつけては興奮したりして遊んでたんです。

「こりゃー、今日、ツチノコ見つけちゃうかもしれないなぁー」
てなもんです。

ひとしきり遊んだ後、ツチノコも見つからないので、さて帰ろうと、下山を始めたんです。

下山ですので、坂道を下っていけば麓に着くだろうと下り始めたんですけど、
なんかねぇ。下ったと思ったら上りしかない窪地に紛れ込んだりしましてねぇ。

そして、あれれ?と思って、登ってはまた下るんですが、また上りしかない窪地だったり、
これ以上は下れないような急勾配にぶつかっては回り道。

そんなことを繰り返してますと、どんどん暗くなってきたんですよ。

流石に、
「やばい!完全に迷った」
と焦り始めたんですよね〜。

友達もどんどん焦りの色を見せ始めたとき、

「大丈夫大丈夫。今日の夜にはのんきに家でご飯でも食べてるだろうし、今思ってる心配もすっかり忘れてるだろうから、今はとにかく下る道をさがそう」

なーんてことをね。
かっこつけて言ってたんですけどねー。

ココロの中では不安でいっぱいだったんです。

結局なんとか山道に出れたので、無事下山することができ、予言どおり、夜はのんきに家で晩御飯を食べていました。

 

はい。
おはようございます。
タクさんです。

まあねー。
いろいろと不安を抱えたりしている方もおられるかもしれませんけどね。
ちょっと、その不安は置いておいて、今、ここにある見逃しているもの。

それに目を向けてみるのをおすすめします。

僕らが感じている世界。
それは、切り取った瞬間の連続です。

いわば、アニメーションのセル画の一枚一枚です。

この瞬間を脳内で連携させてストーリーを紡ぎ出します。

そして、ストーリーになったところで僕らはそのストーリーについて思考をめぐらし、
ストーリーを進行させていくんです。

そしてそのストーリーを何度もリフレインさせているんです。

まるで、受験生のように、何度も何度も参考書を繰り返し読むかのように、
不安なストーリーをリフレインさせているんです。

そりゃ、心も体も疲れちゃいますよね。

だったら一度、そのストーリーを置いておいて、今目の前に広がるイノチの奇跡に目を向けてみてほしいんです。

動力源もないのに、動き続ける心臓の鼓動。
電源もないのに動く手足。
目に飛び込む奇跡としか言いようのない青空。
木々も動物も、そして僕らも、呼吸を通して全てとつながる。

ここかしこは、イノチに溢れ、そして、僕らもまたそのつながったイノチそのものです。

これが、見逃していた眼の前の全てです。

問題だと思っていた思考のおしゃべりは、このイノチの表現の中のほんの一粒にすぎないことに、
そして、一部にフォーカスし、全てを見逃していただけだったことにも気づくと思うんです。

これらのイノチの表現に、なーんにも足りないものはありません。

不安なストーリーがリフレインするのは、解決策が見当たらないからなんですが、
リフレインをしたとしても、それが見つかることはありません。

見つかるとすれば、見落としているなにかを発見するしかありません。
それには、フォーカスをやめなきゃ見つかりませんよね。

そのためにも、リフレインに気づいたときは、それを置いておくことをおすすめします。

それでも見つからないー!ってなるのなら、
もうそれ、見つからなくても良いことかもしれませんのでね〜。

できる範囲のことを淡々とやってりゃ良いんですよねん。

きっと夜には、スヤスヤと安心の中で眠ることでしょう。

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