Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分を愛すること。隣人を愛すること。

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はじめに

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

キリスト教でね。
隣人を愛しなさい。
っていう言葉があるじゃないですか。

これねー。
実は、ちょっと省略されておるんですよね。

何が省略されているのかというと、

「自分を愛するように」という言葉がしょうりゃくされておるんです。

実際はこうです。

「自分を愛するように、隣人を愛しなさい。」

これが、聖書に書かれている言い回しなんです。

ま、僕はキリスト教には詳しくないんですけどね。

でもこの「自分を愛するように。」

ここが大事なんじゃないかなーって思うんですよね。

そもそも、自分を愛すること。
これが最初なんです。
これがなきゃ、始まらんぜ!

ってことなんですよね。

自分を愛すること。
これを最初にやって、その後、隣人やあらゆるものも、
自分と同じように愛しなさいよ。

ってことなんです。

 

自分の救済

えー。
でも、こんな自分はとてもじゃないけど愛せないよ〜。
だって〜、○○なんだもーん。

ってねー。
思う方もおられるかもしれませんねー。

でもね。
それって、比較という概念に自分を押し込めちゃってるから、
そうなってるんですよね。

〇〇の部分は比較の概念なしには語れない何かが入ってくるんですよね。

でも比較というのはあくまでも概念に過ぎません。

そもそも、自分を愛するのに、条件なんて要らんわけです。
条件をつけるのは、自分に失礼ですからね。

そして、条件をつけなくていい!ということを知ること。

それがねー、自分の救済となるんです。

比較は理不尽を生む

僕らが思考で作る世界観は、理不尽なことばっかりかもしれません。
何にも悪いことしてないのに。
って思いも、生きてりゃ沢山あるもんですしね。

え?私の何がいけなかったの?
って思うことも色々とあるもんです。

それが思考で作られる世界観のある種の宿命なのかもしれません。

なぜなら、思考で作られる世界の根底には、比較の概念があるからです。
比較には、当然、良いと悪いがついて回ります。

ですが、こうしたら良くなって、こうしたら悪くなるという完璧な答えは得られません。

なぜなら、比較はあくまでも概念に過ぎないからなんです。
この比較の概念を、本気で受け止めれば受け止めるほどに理不尽さということも生じてしまうんです。

ですが、本来のあなた自身は、条件で縛られるものではありません。
そもそも、何かとの比較によって自分自身が存在するわけでもありませんからねー。

自分を愛すること。隣人を愛すること。

そうなのか!比較を自分に当てはめなくてもいいんだ。
そんなものを当てはめる以前から、もう存在しているんだ。

ってことなんです。

自分という概念さえ、自分に当てはめなくていいんです。
すると全てのかせが、全部概念に過ぎなかったことを知るんです。

するとねー。自分を愛すること。それは隣人を愛すること。
これって突き詰めるとイコールだったんじゃーん。

ってなことも明らかになってくるんですよねん♪
隣人どころか、ペットボトルの蓋さえも、愛らしい存在そのものなんです。

比較から解放されるとき、全ては許されていたことを知るんです。
僕らは救われていたんです。
これは信仰ではありません。確かめてみることで明らかになることなんです。

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