はい。
おはようございます。
タクさんです。
僕らにとって一番やっかいなもの。
これね。
無力感なんじゃないか?って思うんです。
自分は無力だ。と言う思い込み。
これが、自分を苦しめて、
その苦しみが他人に向けば他人をも苦しめてしまう。
そればかりか、
この無力感っていうのは、甚だしい勘違いでもあるわけです。
この勘違い度合いが大きいのもまた有害になっちゃってるわけですね。
なぜなら、そもそも無力ですらないのに、そう思い込むことによって、
今度は無力な自分に何かを足さなきゃならない。と思い込んじゃうからなんです。
そして色々なものを足そう足そうとするわけですが、
何を足しても埋められないんですよねー。
だって、そもそも何が足りないのかすらわかってないんですからね。
埋めようがないわけです。
なので、埋まらない足りなさをいつまでも持ち続けちゃうことになったりするわけです。
僕らの目の前に広がる世界。
この世界の正体は、常なる変化です。
あらゆる全ては常なる変化として起こっています。
この常なる変化はまさにイノチであり、このイノチのみずみずしさが
全てに偏在しているんです。
このつながりの中に、今まで自分だとしていたモノも個別ではなく全体としてがっつりと存在しています。
まさに、「在る」なんですねー。
この「在る」を真に捉えることはできません。
僕らが捉えているものって真に捉えているものなんて一つもないんですよね。
なぜなら、全ては捉えようのないものですし、
そもそも捉える必要性すらないものだからです。
なので、頭で捉えている世界はあくまでも、
真実ではなく、真実にレッテルをいう観念を貼って、その観念を組み合わせた概念というものに加工されたものなんです。
この加工された世界には、生きているというダイレクトなみずみずしさはないんですよね。
そして、この観念によって作られた世界にいる時、全ては意味づけされた世界となってしまいますので、今ここで感じられているはずのダイレクトなイノチの感覚。このみずみずしさは、どってことないこととしてスルーされているんです。
そしてここで僕らは、イノチのみずみずしさを意味づけされた世界観で覆い隠しちゃうんです。
覆い隠されたイノチの感覚は忘れ去られるわけですが、忘れ去られるがゆえに僕らはそれを求めるんですよね。
なので、
生きがい。やりがい。を欲しがり、探し求めるんですが、
それなら、覆い隠しているこの意味づけされた世界観を取り払えば良いだけなんですが、
意味づけされた世界の中でこれを探し始めちゃうと、やはり意味を探してしまうんですよねー。
だからまずは探すのをやめちゃう。
本当に探すのを止めるには、誤解ではあるんですが、足りない自分を認め受け入れちゃう。
というのも、一つのコツとなっているわけです。
そうすることによって、足元にもともとあった、ダイレクトなイノチの営み。
それが蘇って来てくれるんです。
そして、改めてこのイノチに気づくこと。
それがが気づきなんですねー。
すると、太陽の光が、音が、風が、なんて事のない椅子と触れるお尻の感触が、
そして、ペットボトルのフタが(笑)、
生々しいイノチとして生き生きとみずみずしく迫ってきていることに気づくんです。
世界はこんなにもイノチで輝き満ちていたのか!と、改めて発見するんです。
今までも全て観ていたんですが、このイノチのみずみずしさを、
頭の中の観念でかき消していただけだったことを知るんです。
全ては常に新しく驚きに満ちているんです。
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