Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

真実は理解できないものと知る時に起こる目覚め

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はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさんは今まで、どんなことにハマりましたか?
僕は、学生の頃には、歴史に特にハマりました。
でも、今思うと、歴史というよりは、
「人はどう生きるべきか?」
という問いにハマっていたのかもしれませんねー。

その問いに対する納得のいく答えを得たい!という思いから、
歴史にハマっていったんです。

だってねぇ。
今生きている人に聞いたとしても、その人の答えがあっているのかどうか?は、
その人が一生を終えないとわからないじゃん!
って思ってたんですよね。
であるならば、歴史上の人物の生き方にこそ、きっと答えがあるはずだ!
ってね。
なんかそんな気がしていたんです。

ですが、これ、
読めば読むほど、わからないことが増えていくんですよね。
そして、愕然とするのは、歴史という概念を生み出したヘロドトスや、
現存している最古の中国の歴史書である史記。

これら以前にも気の遠くなるような歴史があったということです。
ヤバイです。

だって、2000年前の歴史書に、2000年前のことが書いてあるんですもん。
でも、それ以前にもずっと人は歴史を積み上げてきていたわけでして、
途方もないんですよねー。

 

 

人はどう生きるべきか?

人はどう生きるべきか?という問いってね。
誰しも一度は考えたことがある問いなんだと思うんですよね。
なんと、中国の歴史書「史記」の基本テーマもまた、
人はどう生きるべきか?ということがテーマになっているんです。
ですが、その史記を全部読んで見ても、ヒントはあるものの、
その答えは載っていないんですよね。

じつは、この問いには答えがないんです。
答えがないことが答えだったんです。

イノチを操作する者はいない

どう生きべきか?に答えはありません。
なぜなら、僕らは生きているイノチそのものではありますが、
そのイノチを操縦している者ではないからなんです。
生きているということは、イノチの表現に気づいているからなんですが、
僕らはこの気づきそのものであり、この気づきとイノチは同じものなんですよね。
気づきは操縦者ではありません。
表現そのものなんです。
どう生きるべきか?という問いもまた、イノチの表現の一部であり、
そこに答えはないんです。

味は味わえば良い。
音楽は聞けば良い。

同様に気づきは気づいてればそれで良いんです。
そして、そこに主体者はいないんです。

真実はきっと理解できるという思い込み。

僕らはどこか頭の片隅に、
真実はきっといつか理解できるはずだ!
という思いを持っていたりします。
だから、それを探し求めるんです。

そして、真実とは、正しいことだと思っています。
なので、嘘ではない、正しい真実に触れたいと願うんですよね。

でも、
コインの表と裏がどちらもコインそのものであることと同様に、
ウソとホントも、
山と谷も、
正しさと間違いも、
静寂と喧騒も、
どちらも一つだったんです。

僕らの理解は、裏か表かを探る行為なんですが、
その行為では、真実そのものを見つけることはできないんですねー。

自分は真実そのものである

逆にいうと、自分もまた、おもてであれ、うらであれ、
どっちに転んだとしても、真実そのものだということです。
今、生きているということ。
これがまさに真実のイノチの表現なんです。
今、ここにすでに答えはあり、その答えから僕らはいっさい離れたこともないんですよね。
真実はどう頑張ったって理解できることではないんだ!という気づきは、
同時に、真実そのものの目覚めでもあるんです。

この目覚めが、あらゆる「〜べき」から自身を解放してくれるんですよね〜。

あー。ホント、コレでよかったんです。

 
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きっとこのブログの感じ方もドーンと変わって見えてくるかもしれません。

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