Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考とコントロール

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おはようございます。
タクさんです。

自分は常に自分を評価しようとするんですよね。
あの時の自分は正しかったか?
これからはどうすれば正しい道なのか?
今この時点の判断に対しても、
それで正しいのか?それとも間違っているのか?
と常に問い続けてきます。

人のサガとしてね?
問いが頭の中で、問われると、
その答えを探し求めるというクセがあります。

例えば、
「あなたの好きな色は何?」

って聞かれると、ついつい。
「なんだろ?赤も好きだけど、青も好きだなぁ・・・」
って考えちゃったりするんです。

そして、この問いが、自分の存在、生命にとって、
大事な問いであればあるほど、
より真剣に答えを探し求めようとするんですよねー。

 

この選択は、あなたの人生にとって正しいのか?間違っているのか?
なんて考えちゃうと、
う〜ん。どうなんだろう???
と悩みあぐねてしまったりします。

そして、この問いが、自分のやりたいことへの障害になったりもするんですよねー。

正しいのかどうかがよくわからないので、一歩踏み出せない。
みたいな状況ですね。

それはそれで、全然いい場合もありますし、自分のワクワクをせき止めちゃってツラく感じちゃう場合もありますので、一概には言えませんが、いずれにせよ、

「どうすればいいのか?」
について、今、その答えがわからないのであれば、もうそれ以上は考えなくてもいいことなんじゃないのん?
って思います。

明後日の晩御飯は、何にしようか?なんて、明後日の夜に何が食べたくなるのか?わからないですもんねぇ。
そんなの、明後日の自分に任せておけばいいことです。

それを今わかろうとするのは、そもそも無理な話ですからねー。

ま、そうは言っても、
どうなんだろう?
っていう問いは頭の中についつい浮かんできたりするものです。
これを無くそうとしたところで、それは無理なんですよね。
もう、それが人の機能ですので。

心臓の鼓動で三三七拍子をやろうとしても無理なのと同じです。

ただ、これが単なる機能なんだと知ることで、
思考を必要以上に反芻(はんすう)したり、
発展させなくてもいいということを知ることはできます。

ああ、こいつ(頭の中のおしゃべり)は機能として単に起こってるだけなんやな。

ってね。

知ることで、
思考に思考を重ねなくてもよくなるんです。

「わからんことは、わからん!」
以上。

で済むんですよねー。

そして、必要以上に、この思考の相手をしなくてもいいってことを知った時、そこに大きな安心があるんです。

心配事って、思考の中だけにしかないですからね。

この安心を見つけた時、僕らは同時に皮肉な事実を知ることにもなるんです。

それは、
「うおっ!
今まで、わしは、安心を求めて、思考に思考を重ね、その答えを探し求めていたのに、その行為自体が、安心を覆い隠しておったんかー!」
という事実です。

そして、
「わからんことは、わからん!以上!」
が極まってくると、

「ああ、これができなかったから、今まで思考の奴隷になってたんだなー。」
ということも知るんです。

これは、無責任さを思考に納得させるということとは、ちょっと違います。
また、一切の思考を無視するということでもありません。

そして、思考が浮かばなくなるということでもないんです。

ただ、そのいついかなる時も、浮かんでくる思考の相手をしなければならない!ということじゃない。
ということを知るということなんです。

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