Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考の中の言い訳と許しの話

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おはようございます。
タクさんです。

寒いですねー。
皆さん、体調いかがでしょうか?
僕は、R-1が風邪やインフル予防にいいらしいと聞いて、最近毎日飲んでるんですが、
なんとか風邪を引かずに来れてます。

これが、R-1のおかげなのかどうかは、わからないですけどねー。
皆様も、お体ご自愛ください。

 

さて、
今日は、ついつい起こっちゃう思考の中の言い訳について書いてみたいと思います。

「もしかしたら、不必要な罪悪感を掴み取ってるのかもよー。」
ってね。
僕も、このブログで、ゆうたりしてるんですけど、
これね。
「そっか、罪悪感に苦しまなくてもいいんだ。」
って思ったとしても、ついつい、罪悪感を掴んじゃった場合に、起こりがちなのは、思考の中での言い訳なんです。

例えばね。

「あー失敗した、私はダメだなぁ。
おっといかんいかん、罪悪感は必要ないんだった。」
ってね、気づいたとしますよねぇ。
するとそのあとに、私はダメじゃない理由を探そうとしちゃうんですよね。

「そもそもこの失敗だって、もっと丁寧に教えてくれなかったあの人が悪いんだし、
今私がこんななのも、社会のシステムが悪いわけだし、
私が悪いわけじゃないんだもんね!」

みたいなね。

でもそれだと、ちょっと違うんです。
罪悪感を持たなくていいよーっていうのはね。

いもしない、自分の中にある裁定者に対して、そないに気を使わんでもええよぉ〜。

っていう話なんですよね。

私はダメだというわけでもありませんし、
ダメじゃないというわけでもないんです。

ダメとかOKとかを下してる裁定者さん。
この人に気を使わなくてもいいっていうか、
気にしなくていいって感じなんですよねー。

私はダメだーってなるのは、ありもしない判断基準に沿った場合に起こるわけですが、ダメじゃない理由を捜し求めるのも、これまた、ありもしない判断基準を作ろうとしてることになりますからね。

ただ、判断基準が変わることで、心の感じ方がコロッと変わるというのを確かめてみるのは、ある種、面白いからやってみてもいいと思います。
これをやってると、判断基準なんてあってないようなものじゃん。
言うたモノ勝ちやーん。
ってなことも見えてきますのでねー。

はたまた
安心でいたいという思いから、自分の中の裁定者に言い訳をするパターンもあったりします。

例えば、
「好きなことをすればいい」
っていうのは、そりゃその通りですし、
「安心、安堵だけがあるんです」
っていうのも、ホントなんですが、

これらを安心材料として、自分の中の裁定者を納得させようとすると、途端にうまくいかなくなったりします。

「そうそう、仕事嫌だし、好きなことして生きていいわけだから、きっと大丈夫なはずだ。」

みたいな感じで、安心してみようとしても、なかなか上手くいかなくなったりするんですよねー。

囚われなくていいのは、
不安という思いの奥にあるように見えて、実際はいない自分の中の裁定者に囚われなくてもいいってことなんです。

つまりは、安心でいたいという思いにさえも囚われなくていいってことなんです。

許しとは、ダメでも良し!
不安があっても良し!
っていう許しなんですよね。

そして、それが許されると、全然ダメじゃなかったじゃん♪ということに気づくわけです。

変な話、自分が不安を許すことはできません。
だって、不安を解消しようとする働き自体が自分でもありますからねー。
だから、「許せる自分になれない」という自分を許しちゃえばいいんです。