はじめに
ほーい。
おはよーございます。
タクさんです。
今日も今日とて、「それ」とか「これ」について書いてみたいと思うんですけどねー。
心頭滅却すれば火もまた涼し
じゃないですけどねー。
「これ」しかないし、すでに「これ」なんだ!
あなたが、それに気づけないのは、何かを身につけようとするからだ!
色々と勉強してきて、あれなのかな?これなのかな?と探すからみつからないんだ〜!
そうじゃないんです!
私だけがこの真実を伝授いたしますー!
的なね。
そういうスパルタ系の教えもあるっぽいんですが、
なんていうか、
「これ」しかないの「これ」って、別に何かを否定してないんですよね。
何かを目指しているのも、掴もうとしているのも自分じゃありませんからねー。
それをなんとか打ち消そうとしてもこれまたあかんのです。
いろんな心持ちやいろんな思いってね。
起こってくるじゃないですか。
この子たちをなにも排除しなくても良いんです。
排除しなければー!っていう思いこそが、何者かになろう!
という感覚をどうしても刺激しちゃったりもしますからねー。
そんな時は、
「うはっ!ワシ、何者かになろうとしてる!」
ってね。
そう感じた時は、可愛がってやれば良いんですよね。
ま、ワタシだけは他の先生とは違うとかいう言葉の妙な響きに引っかかる時って、
脅されてるようなもんですからね。
コレに乗っかると、自分を見失っちゃったりもしちゃうんでね。
依存にもなったりします。
それよりも、コレで自分を可愛がれるのかどうか?
まずは自分が気持ちいいのか?
この辺を一番大事にしてやればいいと思うんですよね。
そもそも、特別な人もいなければ、悟った人もいませんからね。
悟りとか非二元は個人を何者かにするもんじゃありませんし。
ゲームは面白がればいい
禅問答じゃあるまいし、あれもこれも否定に否定を重ねるのもね。
ゲームに過ぎませんからねー。
面白そうならそんなゲームに興じるのも良いんですけどね。
なんか嫌なら、しなきゃ良いんです。
誰が言っているから正しい。
自分はおそらく間違っている。
この思いこそがねー。
錯覚なんです。
この「自分は何か間違っている!」という錯覚を刺激されちゃってる場合は、まず先に自分を受け入れてあげることをオススメします。
先生が正しくてあなたが間違っている訳じゃありません。
この方式が成り立つのは何かしらのルールを学ぼうとしている時だけなんです。
知るのに主体は必要ない
「これ」とか「それ」はルールを学ぶものじゃなく、
ルールを一旦置いておいて、
「うは!これってルールやったんや!」
ってねー。
ルールとは知らず、ルールを掴んでいたことを知るってことですのでねー。
当たり前のことを当たり前に知ることなんですねー。
先生が別に偉いわけじゃないんです。
なので、自分の感覚に注目してみてね。
フワって何かが解けたなら、そこにリラックスしてみれば良いんですよね。
ま、
知ることとか言っちゃうと、誰がそれを知るの?
っていう疑問も湧いてきちゃうかもしれませんが、
知るのに誰も彼もないんですねー。
何かを知ったり、何かを身につけるのに主体が存在する。
というのもまた、ルールブックの一文なんです。
わからんを知る
禅問答ゲームとはわからんをわからんと知ることにあります。
僕らは常に答えを求め過ぎちゃってるんですよね。
どんなものにも答えがあるという錯覚が強いといいますかねー。
なので、常にわからんに振り回されていたりする訳ですね。
そんな振り回されている自分を可愛がってあげることでね。
なんていうか、「わからん」もまた、味だよね!
ってね。
許されちゃう訳です。
そんなわからんが許された中でね。
あ、良いなーと思うような思いが湧き上がってきたのだとしたら、
それを興じれば良いんです。
なんにもなさってね。
なんにもないんだから無目標でいなければならないということじゃありませんからねー。
目標に支配されなくても良いんだよーってことですもんね。
だからね。
どんなあなたも許されています。
あなたもそんなあなたを許してあげてみてください。
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