Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

概念や観念では、目の前のケーキは切れませんねん。

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解釈上ではねー。
色々と学んだり、そうすることによって、色んなところに到達したりってね。
思ったりもするもんですけど、

結局のところ、どうやったって、どこにも到達しないんですよね。
もうここが全てであり、それで完璧ですのでね。

完璧なはずあるかーい!って思いがあったとしても、
それが起こってるだけであって、それを捉えてるだけでもあって、
そして、何を捉えようと、
もうすでにココは完璧やというわけです。

ただし、解釈や概念上でこの完璧さを納得させるという話ではないんですよね。解釈や概念上で完璧を追い求めると、ゴールってないんですよね。

なぜなら、解釈や概念は、分離という大前提の上でどちらかを是とした上で成り立つ仕組みやからね。

どうやっても完璧にはなり得ない訳です。

どちらかを選んだ時点で、それ以外を失ってしまいますからね。

 

概念や解釈を追い求めれば追い求めるほど、失う部分は多くなります。
これは例えば

ホールケーキが丸一個あるとするやないですか。
もうそれで、全部であり完璧な訳ですけど、
ここで、解釈や概念が加わると、何かを捉えなきゃいけない訳でして、
何かを捉えるには、捉えない部分が必要になって来ますのでね。

で、ホールケーキを半分に割る訳です。
そしてこの半分を是とする訳ですね。

さらに概念や観念が加わると、その半分をさらに半分に、
また半分に、そしてまた半分に、、、と繰り返すわけです。

すると、全部だったケーキがほんのひとカケラになっちゃうわけです。

このひとカケラのケーキを見て、全然足りない。。。。と思うわけです。

そして、なるべく完璧に近いところを追いかけて、
さらに観念や概念で武装しようとするわけでして、

そうすると、また半分、そしてまた半分。。。。
といった具合に、
どんどんケーキがちっちゃくなっちゃうわけですね。

でも、実はちっちゃくなったと思ってたケーキってのは実は幻想で、
実際には、ケーキは最初っから変わらず、目の前に丸一個のホールケーキとしてデーンとあるわけです。

ホールケーキを前にして、
頭の中の念力(イメージ)で、
「おりゃー!半分に分かれたまえぇぇぇ〜!」
と念じたところで、ケーキは二つに分かれるわけはなく、
ただ、あるわけです。完璧な全部としてね。

イメージ上で半分にしたことにしときましょ。ってな具合で仮定でそうみなしてただけなんですよね。

おままごと上のルールと同じ感じでね。
「はい。これ、お団子ね」
と泥団子を食べる振りするのと同じ感じで。

そして、イメージの中で、小さなケーキが織りなす物語がどう展開していようと、
ホールケーキは分かれる事なく、ずっと、でーんっと在るわけです。

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