Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あらゆるものは、対象ではない。

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おっはよーございます。
タクさんです。

僕らが見ているもの。感じていること。
これらってねー。

対象の中にはありません。

見て感じる。
ここにはダイレクトさがあるんです。

あなたが効いている音はあなたの中で鳴り響いており、
あなたが見ている景色は、あなたの中で展開されているというわけです。

あなたが感じる味はあなたの中で表現されていて、
あなたが感じる感触はあなたの中で感じられているんです。

五感のあらゆる感覚。
これらを僕らは、対象を見ているように感じていますが、
全ては繋がりダイレクトに触れることによって感じているんです。

山を見た。
と思っていたとしても、その風景は光となりあなたと触れ合うことで、
初めてあなたはそれをみることができているわけです。

だって、目に見えているものはすべて光ですからね。

そして、光をダイレクトに感じたあと、僕らはこの光景を分析し意味付け、
対象化したうえで、「山を見た」という解釈をしているわけです。

ちょっとダイレクトダイレクトとうるさいかもしれませんが、
このダイレクトさこそが、気づきであり、
このダイレクトさしかこの世にはなく、
このダイレクトさがあらゆる解釈をも可能にするポテンシャルであり、
そして、このダイレクトさこそがイノチそのものである。

と言うわけですねー。

 

気づきの視点。
これの視点。
悟りの境地。
いま、ここ。

これらが、まさにダイレクトさなんです。

これしかないんですよねー。

ダイレクトさも、気づきも、「これ」も、悟りも、いまも、ここも。

対象ではないんです。

僕らは解釈をするために対象という仮想の概念を作り上げているんです。

僕らは何かを見つけようとする時、対象を探そうとしてしまいます。

それは、この対象や対象から作り上げられた世界が仮想の概念だということに気づいていないからなんです。

すべてはひとつながりであり、一切の分離はないんですが、
仮想の概念を作り上げられる過程で、自分自身と対象に分けられ、仕組み化され、概念化されているわけなんです。

そうしてるよねー。ってね。
気づくためには、一旦この概念から離れて見なければなりません。

これらの概念を置いておいて、ただ、いまここに在ってみるんです。

ちゃんと概念化しないと、何も始まらない!
何も理解ができない!

なーんて声が聞こえてくるかもしれませんが、
これもほっておいてみるんです。

すると、完璧な今が残ります。

この今こそが、ダイレクトであり、ひとつながりであり、満ち足りており、完璧な、
いま、ここなんですよねー。

そこで、すでに全ては救われていたという優しさと許しに触れるわけです。

対象の中に、真実や許しや探し求めているものはありません。

ですが、対象とは自身の中にあったんだー!
ってなことを知ることによって、探していたものもすでにここに在ったことを知るんです。

そして、真実と許しを知るんですよねん♪

  

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