Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

愛しさと切なさと儚さと

はじめに

はいよー!
どうもおはようございます。
タクさんです。

桜は儚く散るから美しい。
なんてね〜。
思ちゃったりしますよね。
いくら綺麗でもずっと咲きっぱなしだったら飽き飽きしてしまいますもんねー。

打ち上げ花火もそうですね。
パーっと咲いて消えていく。
なんかその様に僕らは自分自身を重ねて、
ちょっぴりおセンチな気分になったりもするもんです。

何でしょうねぇ。
あのおセンチな感覚。
愛おしさにも通ずるものもありますよね。

きっと僕らは、
言葉を超えた、ただある「それ」。
この「それ」を愛しているんでしょう。
だからこそ、「それ」を求めずにはいられないんだと思います。

儚さの中にある美しさとは、まさにこの世の本質的な美しさそのものなんでしょうね。
そして、それをとっておくことは出来ないってことに、
ちょっぴり物悲しさを感じたりもするワケです。

 

あらゆることは全て儚い

あらゆることは、全て儚いものです。
儚いとはどういうことかというと、固定された状態として存在し得ないということなんです。
そう言われると、そりゃそうだよね。
ってきっと皆さんも理解してもらえると思うんですよね。

ですが、理解はしていても、やっぱり僕らはあらゆることを状態として捉えてしまうんです。
そして、その状態が崩れ去るときにちょっと狼狽してしまうんですよね。

また、どうしたら状態として固定できるのか?ということにも執着するんです。

ですが、無理なんですよね。
そもそも状態というもの自体が存在してませんからね。
一定の状態があると錯覚してしまうから、
あらゆるものをつかみ取り、それを持っておきたいと願うんです。

そして、どうしたらこの願いが叶うのか?
と探求するわけですが、あらゆるものは持っておくことが出来ないんです。

状態は存在しない

ですが、なんと言われようと、僕らの感覚としては状態が存在するように感じてしまうようにも出来ているんです。

「えー!なんで存在しないものを感覚としては感じてしまうのん?」
といいますとね〜。

思考ちゃんは、止まったものしか捉えられないからなんですよね〜。

カメラを想像してもらえればわかりやすいかもしれません。

カメラで撮る写真ってね。
変な話、走っている人をちゃんと撮る事はできないじゃないですか。
写真になった時点で、止まっちゃいますよね。

僕らの思考のストーリーもまた、状態と状態をつなぎ合わせて作られるわけですが、
あらゆるパーツは止まったものとしてしか捉えられないんですよね〜。

つまり、諸行無常というものは、思考ではとらえることが出来ないんです。

これを捉えようとすると、どうしても時間という概念を使わないと捉えられないんですよね〜。
時間の概念とは、「これが、こうなった」という2つの状態とその間に時間という概念を加えたセットとして機能しています。

そうやって、状態と状態をつなぎ合わせて、時間という概念が加わったストーリーというものに加工しちゃうんです。

そして、そのストーリーを通して僕らは世界をみておりますので、感覚として状態と時間というものが存在するように感じているわけです。

時間は存在しない

そもそも、時間なんてものは存在しておりません。
この時間というものは、ストーリーを解釈するために作り出された概念なんです。
そして、どう解釈しようともありのままの真実を解釈することは出来ません。

なぜなら、解釈というものが、別のなにかに置き換える作業ですからね〜。
なので、僕らは、その真実を知るには解釈から抜け出さなきゃならないわけです。

もともとこの世界に解釈というものが在ったわけではありませんし、
僕らも、この解釈という技術は、後天的にマスターした技術ですからね。
元々はなかったことを心の奥底では知っているんですよね。

不自由さや分離というものは、解釈の中だけに存在しています。
解釈を取り除くと、そこにあるのは完璧さであり全てです。
全ての地点に立脚すると、解釈すら完璧なんです。

なので、何も足さなくていいし、何も引かなくていい。
むしろ、足したり引いたりできるものじゃないんです。

あらゆる状態がどんなに儚くても、そのポテンシャルはここに全部ありますからね。
何も失わないんです。

 

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