Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

恐怖との対峙

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自分ってホントはいないのかも知れない。。。

てねー。

実はそのことを見るのって、めっちゃ怖かったりするんです。

それって、まさしく僕らが一番恐れていた死の恐怖を目の当たりにする感じですからね。

うわーーーー!!!!!
めっちゃ怖いーーー!!!!

ってね。
なる人多いと思うんです。

その恐怖との対峙の時が来たらね。

 

「それそのもの」とは永遠のイノチの表れです。

でもって、僕らは「それそのもの」なんです。

つまり僕らは永遠のイノチです。

ま、時間なんてのは概念でしかありませんので、
実体はございません。

ですので、永遠しかないんです。
永遠とは延々と続く時間ではなくて、
単なる時間のなさなんです。

でもって、全てで永遠である「それそのもの」である。
その「それそのもの」以外に何もなく、すでにそれで全てなんだよねん。
ということを知っていながら、
その感覚を自分という概念に閉じ込めておりますので、
いつしか、自分が「全て」となってしまったりするわけです。
自分以外の人もそれぞれ「全て」を持っている。
イノチを個々人が持っている。
というような錯覚ですね。
そうなると、自分がないというのは、全てを失う恐怖と同様になってしまったりもするんですよね。
漠然とある死の恐怖って、
痛いのがイヤ、苦しいのがイヤの奥には、
全てを失う恐怖があるのかもしれませんねー。

まるで、全てを失うやん!終わりやん!
って感じるわけです。
ホントは自分という観念が
失われるだけですけどねー。

また、自分は何者でもないという事も
中々自分では受け入れられない事だったりもします。

自分という観念は、その自身の観念を守ろうとします。
なので、
自分は何者でないっていう言葉は、
自分にとっては、イヤですからね。
やっぱり優れていたいわけですし、、、。

何者かになりたい、わかって苦から卒業した自分になりたい。
っていう立ち位置からわかろうとすると、
どうしても、何者でもない自分。というところが、受け入れがたくなったりするというジレンマもあったりして、
また変化球的に、何者でもないを受け入れた悟った自分!
みたいな観念を作り上げてみたりしてねー。

でね。
そんなこんなを単に見ている時、
はたまた、思考をそのまんまに単にリラックスした時、
まれに、今まで隠れていた恐怖の大元。
死の恐怖。
そんなもんがあらわになることがあるかもしれません。

恐怖との対峙ですね。

はたまた、
何にもなさが明らかになったと同時に、
夢も希望もないのか・・・。
今まで手に入れたと思っていたものは砂上の楼閣だったのか。。。
みたいな、悲しさが襲ってくるかもしれません。

でもね。
そんな時は焦らないであげてくださいね。

いくらリアルに見える恐怖も悲しさも、
よくよく観察すると頭の中のイメージなわけです。

オラーって!殴りかかってはきませんし、
何かを取り込もうとすることもありません。

でね。
この恐怖は、別に克服しなきゃならないものでもないんです。

これは、生存本能が起こす働きです。
いわゆる自然現象なんです。

だから、その恐怖ちゃんもここにいることを許してあげてくださいませ。

悲しみも、その奥の恐怖から起こっています。

生存本能は、外に吹く風と同じ、一つの自然現象です。
否定すべきものじゃないですし、
悪魔でもないわけです。

うんうん。怖いねぇ。悲しいよねぇ。。。
でも、何も失うこともないし、夢や希望もそのまんま、ちゃんとありますよ。
誰が盗んでいくと言うのかな?盗める誰かが何処かにいるかな?
怖いと言っても、誰も襲っても来ないし、殴られるわけでもないよ。
襲ってくる何かなんて、周りを見てもどこにもいないよ。
ってねー。

慰めてあげたらいいと思うんです。

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