Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

はい。置いといて〜。

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はじめに

ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

いわゆる。
悟りというものは、完成したものといった意味があるらしく、
これって、インドではシッダというらしいんですよねー。

でね。
このシッダというやつなんですが、
僕らって、ついつい、どうすればそれを得られるの??

なんてねー。
思ったりするもんなんですが、
これって、得るとか得られるとかとは全く関係のないことですのでね。

そもそも得る、失うを超えたものですので、
得ようとすれば、全然違うことになっちゃうっていうねー。

そういうものでもあるんです。

逆にいうと、
皆さんにすでに
在るものとも言えるわけでして、
すでに在るものを得る手段というのはないんですね。

唯一あるとすれば、
得るとか失うという幻想から離れること。
と言えるかもしれませんが、
僕らの思考は得ると失うという概念とセットになっておりますので、
思考ではここから離れることはできない。
なーんてことにもなっちゃうわけです。

 

シッダーマスター

ちなみにインドでは、政府公認のシッダーマスターなる称号があるらしく、
ものすごーく過酷な試験にとおらなきゃその称号は得られないんだそうです。

いやー。生き埋めのようなこともするらしいんで、
すげーなぁーとも思うんですけどね。

まー、悟りというのは称号でもなんでもないものなんです。
こうすればオッケー。ここをクリアできればオッケーみたいなものじゃないんですね。

ただ、思考はここをクリアすればオッケー!
みたいな話が大好きでしてねー。
どうしてもそっちに流れちゃったりするものなんですが、
この思考の働きって自分じゃありませんのでね。
別に思考をこの状態に保つとかねー。
そういうことじゃないんですよね。

思考は自分じゃないけど、自分は思考の中だけにある概念なんです。

ちなみにね。
思考の働きは自分とは関係ないとは言いましたが、
自分という概念は思考の働きの中だけに在るものなんです。

だからね。
思考の働きを否定するということは、思考の中では自分そのものを否定する。
つまり死を意味することになっちゃうんですよね。
これもまた、思考の中だけの錯覚なんですが、
思考を置いておくなんて、まるで死そのものじゃないかー!
なんてね。
そんな思いが湧き出てきたりするんです。

思考をちょっと今だけ置いておく

そもそも、思考の働きを否定しろ!って話でもないんですけどね。
思考の働きはちょっと置いておこうよ。
って話でしてね。

そうして、置いておこうとすると、死にたくなーい!って思考が騒ぎ出したりするわけです。
そして、その恐怖がガーン!ってやってきたりするんですよね。

イノチとか、生きているというのは、別に思考の働きのことではないんですけどね。
思考は、働いてないと、自分を維持できないから、つまり死ぬことじゃん!
ってね。
思っちゃうわけですねー。

この死の恐怖に対してね。

まあええがな。今だけやし。今だけ置いておくだけやし。

ってねー。
許してあげられたなら、この許しが、思考の働きだけだった世界からの目覚めを促してくれるわけです。

なんで、イメージだけが全てだと思ってたんだろうってね。
よくよく考えてみると、不思議な感じもするんですが、
思考オンリーの世界観だと、なかなかそこに気付きにくかったりするんですよね。

まあなので、ちょっと今だけ、思考を置いておく。
これをしてみる時に、どんな感じがするのかを観察してみるのは面白いかもしれません。

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