Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

真理の探求とは、水を得ている魚が水を探す旅である

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【はじめに】

ほい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

全てはイノチそのものである。
それはエネルギーであり、働きである。

みたいなねー。
そういうことをよく言っております。

イノチがエネルギーであり働きであるということは、
一部というものはなくて、どこをつまんでも、もうそれで全て!なんですよねー。

この辺の感覚はちょっと伝わりにくいんだろうなーって思っています。

でもなんか、プログラムともちょっと似てるなーって感じています。
ネットにつながったあらゆる情報ってデータ化されたプログラムですよね。
データというのは、動いて初めて役割を果たしますよね。

そして、動いてなくてもちゃんとポテンシャルとしてあるんです。

うーん。
ちょっと伝わりにくいか。

何かの本ではこれをホログラムに似ているって表現されていました。
ホログラムというのは一種の記憶媒体でして、そのホログラムを二つに切っても四つに切っても、同じデータが保存されている。
みたいな感じだそうです。

一部は全てであり全ても全てっていうね。
そんな感じですね。

 

【分離の概念では部分や派生にこだわる】

まーこの話を思考で捉えちゃうと、
つまり大元の全てがあって、そこから派生して個別の自我になってるってこと?
っていうね。
そういう捉え方になっちゃうわけで、この自我から遡って、
まさに鮭の川登りのように生まれた地へ戻っていくと、
始まりの地へ戻ってこれるんじゃないか?

みたいなね。
そんな感覚で捉える方もおられると思います。

でもそういうことじゃなくてですねー。

派生だと思っていたもの全てがもうそれそのものなんですよね。
だから、まだそれにたどり着けないとか言われても、
もうすでにそれですやん!
としか言いようがないんですよね。

【真理の探求とは、水を得ている魚が水を探す旅である】

水を得た魚!
ってな言葉がありますよね。
そもそも、水を得る前があったなら、魚は死んどるがな!
って思ったりもするわけですが、
まー、そんな魚が、水の中をスイスイと泳ぎながら、
「まだ水を得てないんです。」
って言ってるようなものなんですよね。

でも、
「気づかんもんは気づかんし、どうすりゃ良いの!」
ってなる気持ちもわかります。

その気持ちが折れて、ああ、もう私には何もわからないのか・・・。
ってなった時に、他の拠り所を掴んじゃうんじゃなくて、
どの拠り所もつかまずに手を離していたなら、
きっと気付けるんじゃないかなーとも思ったりします。
え、杖がなくても立てるじゃんっ!っていう発見です。

ただ、私にはわからないという気持ちを埋めてあげましょう!
ってなもんで、いわゆるスピリチュアル界隈なんかでは、
いろんなスピリチュアルが拠り所になるツールを用意してますからねー。
ついついそっちにふら〜っと手が伸びたりもするんですよね。

ま、楽しいならそれも良いんですけどね。

でも、それもまた手放しすときが来るかもしれません。
そのときは、手に入れてちょっとは自分も良くなってきたかもしれない。
というモノも手放さなきゃならなくなっちゃったりするわけです。

【全てに価値はないし、すべて価値は同等】

まー、手放す手放さないって言ってもね。
実は何を失うことも無いんですけどね。
ただそれは、何も得てないってことでもあるんですよねー。

でもこれってちょっと自我ちゃんには認めがたいものでもあったりするんです。

今まで色々と勉強して、人間的にも成長してこれたはず!っていうね。
それを拠り所にしているっていう気持ちもありますからねー。

ただ、その拠り所から手を話してみたとき、
実は、拠り所なんて必要なくて、ちゃんと自分の足で立てることを知るんですけどね。

全てに価値はないし、すべての価値は同等なんです。
この言葉になにか自分の心の中で引っかかる部分があるのだとしたら、
そこに何かしらの観念が潜んでいるってことになるかもしれません。

その観念が分断された自分を守る拠り所になっていたりするかもしれません。

ですが、自分は即全てです。
だから、どこにも価値の差はないんですよね。

派生された一部でもなく、即全てなんですよねー。
だから、価値の差はありようがないんです。

 

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