読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

ワタシが生み出す誤解の物語

私はいない それのこと

f:id:takuteto:20170321220218j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

まあ、なんて言いますかねー。
ワタシっていう感覚ね。
それが無いだけなんですわー。無いっていうか誤解に近いっていうかね。

感情とか思考とか色々あると思うんですけどね。
それはそれで全然良いんですよ。
それらはそれらでちゃんと完璧に起こっとるわけですからね。

で、それらはワタシやないんです。

なんていうか、在るっていう感覚はみんなあると思うんですよ。
で、それにワタシっていう観念をつけとるだけなんです。

この観念があるからね、
私と私以外という物語を作り出すわけでね。

で、そうなると、この私はちゃんとしてなきゃならないものに発展するわけですね。
物語の中でね。

でもって、私を守らなきゃならなくなるんです。

で、守るためには、ちゃんとしとかなきゃならないし、ってね〜、
ドンドン発展していくわけで、

この私をちゃんと守らなきゃ、唯一あるこの在るっていう感覚。
これが無くなる!
ってね〜、誤解しとるわけなんですよね。
なので、無くなる恐怖っていうのが、ワタシっていう観念の奥にあるわけです。

身体があろうがなかろうがね、
この在るは無くならんのですよ。

現に身体は常に起こっては消えていっとるんです。

20歳の頃のピチピチな僕はとっくに死んどるわけです。
身体は全て細胞でできとるわけですけど、これだって一年もすりゃほぼ全身の細胞は入れ替わっとるわけですよ。
つまり毎年死んどるんです。

家に飾ってる花が枯れるという経験も、電球が切れるという経験も、
身体が変化するという経験も、
全部この在るの中で起こっとるわけですが、
ワタシという観念が、
ワタクシゴトと外のコトってねー。
観念上でわけとるだけなんです。

で、このワタシって言う観念が、
ワタシを守らなきゃならんという思いを生み出し、
その思いが、私が損なわれるかも知れない!っていう恐怖という誤解を生み出し、
それが、
思いは断ち切るべきといったような信念や、
働かざるもの食うべからず!といったような信念を生み出し、
挙げ句の果てには、その信念もワタシと同様のものとなり、
この信念をも損なわれてはいけないものなんだって言う誤解を生み出していくわけです。

するとね、他の人がその信念に沿わないと、ダメなやつ!っていう思いが起こったり、
信念を傷つけて来るようなパターンに対しては敵と見なしたりね。

そうやってワタシという観念に色々な信念を付け加えるたびに、
全てである「在る」に条件が加わっていくわけですね。

ワタシを強化するにはよりよい「信念」を身に着けていかなきゃならん!
となってくるわけです。

ややこしいことに、この「信念」には、
ワタシを手放さなければならない!

みたいな矛盾した「信念」も加わっていったりしてね。
余計にこんがらがっていくわけです。

もちろん、起こってくる自然現象として、
身体の自己防衛本能はちゃんと起こるわけなんです。

これが拡大解釈されていくわけですね。

拡大されればされるほど、皮肉なことに「在る」を狭めていきます。

狭めれば狭めるほど、足りないが増えていくわけですね。

ホントはどこにも足りないものがなく、全てである「在る」に足りないといった観念が加わってくるわけです。

ワタシはいませんの「ワタシ」の部分には、そうやって色々な信念やら観念がすでに積み重なっていますし、その積み重なり方はみんなバラバラなわけです。

なので、みんなが認識している「ワタシ」には色んなパターンがあるんですよね。

そして、信念を損なわれそうな感覚を感じると、この「ワタシはいません」って言葉に反発するような感情が起こったりもするんです。

自分が損なわれる=在るが損なわれる

ってことですからね。

在るがなくなったらすべてを失うことになりますからねー。

というわけで、みんなに通用するパターン化はできないわけなんです。
より真理に近いことを表現している人は誰なんや!
ってね探すのも無意味なんです。

答えは自分の中、つまりは「在る」にしか無いわけですからね。

なので、まずはどんな観念を積み重ねとるのか?っていうのを見てみたらええねーん。
ってね、言ってるわけです。

でね、それが見れるのなら、それって根拠のない恐怖から来てたりしてない?って観察してみたらいいんです。

ぜ~んぶの経験が観察されるようになった!って言う風になると、
「もしかしたら、ワイ、悟った?」
なーんて思うかもしれませんけどね。

それは違って、すでに「在る」はもう全てであって、自分も自我もエゴも全部含まれておるわけでしてね。

足りないものが「悟り」で埋められるわけじゃなくて、単に「足りない」が誤解やったんやんってのが、明らかになるだけで、
最初っから足りないもんなんて無いわけですから、何かができるようになるわけでもないんですよねー。厳密に言えばね。

在る=ワタシという強力な誤解が溶けていったらね。

自然に、在るが在るだけやん!当たり前やん!何を大騒ぎしておったのか・・・。
ってなるわけなんです。

なるっていう誰かがいるわけでもないんですけど。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

ワタシはいませんけど、ワタシは消えません

私はいない リラックス

f:id:takuteto:20170321220157j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

ワタシはいません。ってのは、ま、そりゃその通りなんですけど、
じゃあ、「ワタシ」は消えるのか?というと、消えません。

何かが変わるってことはないんですよねー。

全てである「在る」とか「それ」をね、「ワタシ」だと見なしとっただけですからね。
このことから、あらゆる物語が始まるわけで、
この「在る」に「ワタシ」という観念を加えることによって、
全てである「在る」に妙な分離感が加わるわけですね。

この妙な分離感が、足りない感覚を生み出し、
「在る」の外にも何かがあるはず!
ってな観念を生み出して、その何かを探し求める探求をしとるわけです。

でもこの「在る」しかないわけで、その「在る」に付け加えてた「ワタシ」という誤解が溶けるだけなんですね。

この「在る」は何にも依存してません。

つまりこの「在る」は身体にも依存してませんので、身体がなくなっても「在る」はなくならないわけですね。

なので、生と死も無いわけです。

「在る」そのものが、今もあなたが感じている生命感なわけです。

「ワタシ」という観念の誤解を通さずにそのまんまの「在る」にダイレクトであれば、全ては生命感そのものなんですよねー。

I am that.
とか、
「私は在る」
とか言われとりますけど、
元々は「在る」だけで、そこにワタシという観念を付けて、
そして分離を生み出して、
探求しとって、、、
その探求から色々な観念がさらに付け加えられとって、、、

てねー、
なっとるわけですけど、
何も足りないもんなんてあらへん。
そもそも「ワタシ」は「在る」そのものやん!

ワタシ=在る
ワタシ=それ

やん!ってことなんですよね。

僕ね、
このブログでも、
みんな自分を過小評価しとるねん!
せやから足りないって感じてたりするねん!
ラーメンが好きやけど、あれ食べると太るねん!

とかね、言ってますけど、
まあ、ラーメンの話はおいておいて、

「在る」そのものを「ワタシ」という観念の中に閉じ込めちゃった結果、
全てである「それそのもの」=「在る」=「生命感」を、単なる個人の中に押し込むもんですから、「在る」が過小評価されちゃって、

全てである「それ」からそうやって過小評価された分、足りないが増えていってしまうんですよねー。

で、「ワタシ」は足りないもんだから、そこに恐怖感が生まれて、
足りないっていう観念が膨れ上がるほどに、

もっと頑張らなあかん!
もっと得なければならん!

ってねー。

なってくるわけなんです。

もっと頑張らなあかん!ということは、自分への不信感があるからなんですよねー。

そうやって頑張って得てきた観念がさらなる頑張りを要求したりもするわけでね。

マイホームを買ったからもっと稼いでローンを払って、
老後の安泰のためにもっと稼いで、
よりよい人生を築くために、もっと頑張って、、、

・・・

ちょwwっw!!!!しんどいわっ!!!!

ってなったり、

頑張らなきゃならんのに全然うまくいかんっ!!!!
って悩んでみたりね。

ちなみに、これはいわゆる「悟り」の修行にも現れたりするわけで、

マントラを得たらじゃあ次のもっとスゴイマントラをもらってもっとより良くなろう!
ってなったり、

この修業がおわったら、次のアドバンスコースの腫瘍のステップに進もう!

ってなったりね。

はたまた、
6次元の存在に触れられるようになったので次は、7次元だ!
とかね。

全部、「ワタシ」が生み出す物語なわけなんです。

ちなみに、物語は悪いもんじゃないですのでね。
普通に楽しめばいいんですけど、
それがどうにも欠乏感に満ちていて全然楽しくないんやったらねー。
そのしんどさは、妙な分離感から来とるのかもしれませんでー。
ってことなんですよね。

自分を無条件で認めて、愛でてあげたらいいんです。

もし、それを拒む条件が出てきたとしたらね。

その条件が、どうも自分の恐怖感が生み出した観念かもしれないわけです。

この観念が荷物になってたりしとるんですよね。

その荷物をおろした時、ファッとした開放感、ゆるみを感じるわけなんです。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

シグナルに耳をすます

瞑想

f:id:takuteto:20170310221035j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

心も身体も思考もね。一緒のもんですよねー。

でも僕らって、どうもココロについては、なんとでもコントロールできると思い込んでるフシがあるんですよね。

例えばね、足がピッて切れて血が出たら、アイタっ!ってなりますよね。
足の裏が切れてるのに、気にせずにガンガン歩いたりしないじゃ無いですか。
ちょっとはかばいつつ無理しないように歩きますよねぇ。

めっさ風邪ひいて、フラフラなのに、
その風邪を完全に無視して、普段通りに過ごす。
なんてこともしないですよねぇ。

ま、どうしてもな場合は、薬で抑えてなんとか頑張ることはあるかもしれませんけどね。

でも、心のシグナルは結構ほったらかしにしちゃったりするんですよね。

でも、心も体も同じもんですからね。

身体の場合は、痛みといった感じでシグナルを出します。

で、
心の場合は、なんとなくの違和感のような感じのシグナルなんですよね。

痛みは無視しないくせに、心の違和感は結構無視しちゃったりするんですよね。
でもこのシグナルも身体で言うところの痛みと同じようなもんですからねー。

ほっとくと悪化して行きよるんですわ。

するとそのシグナルの音はドンドン大きくなって行きます。

それでもほっとくと、ついには、
身体の方のシグナルを使ってアピールして来ますからねぇ。

胃が痛くなってきたり、ついには胃に穴を開けたり、
さらには身体が動けなくなったりもします。
ウツ状態みたいな感じですね。

そうなると、もう心は通常の機能がほぼダメダメになっておったりしますからねー。

ピッて切ったから絆創膏貼っておこー。
じゃ済まなくなっております。

心の大手術が必要になったりするんですよね。

でね。
身体のシグナルは身体の不調を感じ取って痛みとかで発信したりしよるんですけど、

心の方のシグナルは何に反応してはっしんしよるんや!と言いますとね。
基本的に、本来の自分をないがしろにしてるとシグナルを発信するっぽいんです。

本来の自分をないがしろってどう言うことかと言いますとね。

自分のこと、ちゃんと好きですか?
ってことなんです。

どこかで自分を認めてない部分があると、その部分に対してシグナルがなるっぽいんです。
これは僕調べですけどね。

あとは、自分に嘘をついてもシグナルはなります。
これも自分を認めずに過小評価してることになりますからねー。

自分を過小評価しとますと、
それが引き金になって恐怖を生み、
外の何かに依存しようとしちゃうんですよね。

なので、何かしらに依存しっぱなしになってても、
シグナルは鳴ったりします。

「ちゃうでー!」
ってね。

たまに、このブログでも、
覚者なんていてませんし、
そう呼ばれてる人の話を鵜呑みにするよりは、
自分の中を見てみてください。

みたいなことを書いたりもしますけど、
別に覚者批判をしてるわけじゃなくてですね。

何かしらに依存して自分をないがしろにしないでねん。
って思うからなんですよねー。

もちろん、僕だって、ラマナさんとか好きなんです。
誠実な感じがしますからね。
会ったことないから知りませんけどねー。

みんな好きなスピリーダーだったり、お話ししてはる人はいると思うんです。

で、そういう人に話を聞きにいったりするのも全然良いと思うんですよ。
楽しくやるのならね。

そこで、自分をないがしろにさえしなけりゃ全然オッケーだと思うんです。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

覚者になったら何かが変わるのだろうか?

あるがまま それのこと 悟りとは

f:id:takuteto:20170321220133j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

子供の頃なんですけど、ほら、お菓子とか食べてるとね、
袋の中に「たべられません」って書いてある乾燥剤みたいなのが入ってるじゃないですか。

あれ、日本語おかしいじゃないですか。

だってね。

食べられますもんねぇ。

食べると体に悪いかもしれませんけど、能力としては食べられますよねぇ。
めっちゃ硬いもんでもないですし、口に入らないくらい大きいもんでもないですし。

というわけで、
その文字を読むたびに、
「たべられるわ!みくびるなよっ!」
なーんてね。

心のなかでつぶやいておった小心者へんくつのタクさんです。

おはようございます。

今思ったんですけど、この話、前にも書いたかなぁ?ま、いいか。

で、冒頭から何の話やねん!
ってことなんですけどね。

なんていうか、ありがちな誤解としてね、
私はいないっていうのを見抜いたら、自分が消えてしまったら、
もう何にもせずに座ってるだけの人。
世捨て人のようになるんじゃなかろうか?

心が満たされて、もう俗世を捨てた人になるんじゃなかろうか?

考えや思考が湧いてこなくなって、アホみたいになるんじゃなかろうか?
堕落してまうんとちゃうやろか?

みたいなね。

そんなイメージを話さはる人もいたりするんですね。

はたまた、
私はまだ「それ」にきづいてなくて、まだまだ私が残ってるんですけど、、、

と言う人もいてはります。

なんていうか、
そういったことを聞かれたときには、
「何かが変わるわけじゃないですよー。すでに「それ」ですしー。」
『私とかなにかしらが消えたりはしませんよー」

ってな感じで返したりするんですけど、この辺をもうちょっと突っ込んで書いてみたいともいます。

例えばね。
ラマナ・マハリシさんっていう偉い人がいはるんですけどね。

あの人は、何かしらの体験の後、無言でずっと座ってはったらしいんです。
お付きの人がごはんとか食べさせたりしたらしいんですけどね。

その後は山にこもって、腰布と杖とコップ以外はなーんにも所有せずにいてはったらしいんですよね。

なので、なんかそんなイメージが先行してるのかもしれませんけど、
あれはたまたま、ラマナさんに起こったように見えるストーリーであってですね。

何かしらのことが起こるとこうなる。なんてことはないわけでしてね。

イエスさんみたいに馬小屋で生まれたら、どこかの丘で説法をすることになるわけでもなく、
インドの王族に生まれたら、仏陀になるわけでもないわけですからねー。

しかも、固定した誰か?というのがそもそもいてないわけですので、
誰かがどうにかなる。なんてことは無いんです。

例えば、私とは心と身体である。
と思ってるとするじゃないですか。

でも、固定された心とか身体なんてもんはないわけなんです。

心も身体も常に変化してる波のような「動き」ですからね。

昔の写真引っ張り出してきたらわかりますよねぇ!
僕だって、10年以上前の写真みたら、
「だれや!このイケメンは!!!!(笑)どうしてこうなったっ!」って思いますもん。(^^;)

ぼくも、自我ちゃん自我ちゃんって言ってますけど、
自我ちゃんと言った何かが有るわけじゃなくて、単なる記憶から来る習慣と思考の動きのことですからねー。

これって、水面の波のようなもんなんです。

何かに気づいたら、その水面に波は起こらなくなるのか?といいますと、
そんなことはないわけでして、起こることは起こるわけです。

心や感情、身体だって、波のように常に動いているわけで、その動きを固定化した観念として見てるだけなんですよね。

なので、この波が収まらないから、この波はまだまだ「水」にはなれていない。
なんてことはないわけでしてねー。

「私はまだ「それ」にきづいてなくて、まだまだ私が残ってるんですけど、、、」
と言った問いにも、

私という働きは波であって、「それ」は水なわけです。
その働きだけに注目してるのが「私」という状態ですので、私は水を知ることは出来ませんが、すでに「それ」であることは明らかなんですね。

で、それが明らかであると、何かを失うわけでもなく、
たんに深刻さがなくなっていくだけなんです。

波は姿を変えていきます。そして、その波に誰かしらの行為者はおらんわけです。

その働きだけに注目してようが、その波が水であることじゃなくなるわけでもないわけです。

また、それが明らかになったからと言って、世捨て人のようになるわけでもなく、何かを失うわけでもなく、自分が消えるわけでもありません。
興味は興味として起こるでしょうし、個性は個性として起こるわけです。
波のようにね。

波は水であることが明らかになるだけで、それは元々、当たり前なわけですからね。
常に形を変えながら、起こっては消えていくわけです。

誰かに明らかになるわけではないですが、個性は個性として起こっとるわけです。
だから、好き嫌いもあれば、腹立つこともてんこ盛りなわけです。
ただ、深刻さがなくなっていくだけです。

単に深刻さがなくなるだけですので、別に大人になっても「おままごと」は出来るわけです。
「できるわっ!みくびるなよ!」ってことですね。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

空(くう)ってなに?

それのこと あるがまま

f:id:takuteto:20170321220112j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

空(くう)ってなんなんでしょうねぇ?
今更ながら、よくわからん。
って思われる方もおられるんじゃないでしょうか?

いや!わかっとるで!
空(くう)とは、無ではなく満ちているエネルギーであり全てに偏在するものだ!
っていうかたもおられるでしょうし、

よく言われる
目の前のそれ!それが空(くう)ですやん!
一切離れたことのないそれ!

というような表現もされてるわけですけどね。

目の前のそれ!ってどれやねん!ってことになりますわねぇ。
わからんわい!
ってね。

空(くう)という名前の通りどうにもつかみどころがないですよねぇ。

これって空とはなんやねん?から考え始めるとややこしくなると思うんですよね。
目の前のそれ!が空(くう)なんだとすれば、目の前の空(くう)じゃないものを排除していけばええんとちゃうんか!
という事から考えてみてはどうかしら?
なーんて思うわけなんです。


ちょーっとまったーーー!

おまえ!何もかもが「それそのもの」やって言っとるやんけ!
「それ」が空(くう)やとしたら、空(くう)じゃないものなんてないんとちゃうんけ!

って、鋭い方は思われるかもしれませんが、
うん。
確かにその通りですが、ちょっとそこは置いておいて、、、

いってみたいと思います。

さて、
空(くう)じゃないもの。

例えば、
湧き上がる、いやーな感情。
これは空(くう)じゃありませんね。なんとなくですけど。

頭のなかに湧き上がってる思考。
これも空(くう)じゃないですね。
なんていうか、思考ですからね。

目の前のコップ。
このコップは空(くう)じゃないですね。
コップですわ。空(くう)じゃありませんわ。

つぎ、
このペン。
これは空(くう)じゃありませんね。
どう見てもペンですし。

うーん。
じゃあこのクリップ。これもちがう、、、
広がる青空!、、、ちがう。。。
車の音!、、、、ちがう。。。
ラジオ、、、、ちがう。。。
空気!!!、、、ちがう。。。。

あれれれー?
めのまえの「それ」が空(くう)って言われてますのに、、、
目の前のどこを探しても「それ」も空(くう)が見つからんわけです。

どういうこっちゃ????

ということなんですけどね。

じゃあ、今挙げたこの違うものたち。
この違うものたちに共通するもんはなんなのかって考えてみますと、、、

この違うものたちは、ぜーんぶ、認識なんですね。

認識っていうのはいわば、レッテルのようなもんです。

目の前のなにがしかにレッテルを貼っとるわけです。
そして、認識しているわけですね。

んんん???

この認識ってホントに正しいものなのか???

この目の前のペンは、
ペンだと認識されてはいるけど、、、、
誰が見てもペンなんだろうか???

インクのような液体が出てくる棒をペンと呼んでるけど、、、。

それって、ペンを知ってる人だけに通じる共通認識でしかないのか???

んんんん???

あらゆるレッテルも、単なる共通認識でしかないのでは???

そういえば、昔ブッシュマンとか言う映画では、
コーラの瓶が、神から贈られた聖なる道具になってたりしたけど、、、、。

もしかして、、、この共通認識ってオママゴトのルールのようなものなのでは???

へ???
ワシは今までこの認識の中だけが世界やと思ってたけど、
認識を一旦外してみると、目の前のあらゆるものの境界線がなくなっていき、

あるのは、常に変化しつつも変わらない、
認識も境界線もないので、名前のつけようのない、
「それ?」が全て???

そりゃ探して見つかるもんじゃないわ!
だから、探求の終わり・・・?。

ファッ???

これが空(くう)?

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

不安感には、ねぎらいの一言を

それのこと 自我ちゃんのクセ

f:id:takuteto:20170316221825j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

そりゃそーやろ!
って思われるかもしれませんけどね。
実は僕、、、

ネコを飼ってるんですよ。

たまーに、このブログの写真にも
ウチのネコさんを使ったりもしてるんですよね。

ま、それは良いとして、

でね、このネコ、
たまに横に来て、ニャーってゆーてくるんですけどね。
ご飯はさっきあげたし、何の用なんや?
って思うんですけど、
とりあえずアタマを撫でてあげたら、

ニャッ!

ってなもんで、満足してどっか行きよるんですね。

なんやお前!撫でられに来たんか!かわいいノォー!
って、しつこく近寄ると逃げられるんですけどね。

というわけで、
どういうわけなのかは、わからないですけどね。

自分の中にある、不安感とか重た~い感覚とかあるじゃないですか。

そういった不安さんとかにもね。
ねぎらいの意味も込めて、いたわってあげて欲しいんですよねー。

ネコのようにアタマを撫でてあげることはできないんですけどね。
「おまえ!よくやっとるで!」
ってね。
いたわりながら、
邪険にせずに、そこに居させてあげる。
居ても良いよん。って許してあげるんです。

そうするとね。
その不安さんもね。
待ってた!って感じで喜んでくれるかもしれませんよ。

そしてね、
不安感みたいなものがあるから、なんだか気分が悪い。
って思ってたことが誤解だった!
ってことも明らかになってくるかもしれません。

あるのに無いものにしようと押し込んでたことがしんどい原因だったんですよねー。

不安さんでも悲しみさんでもね。
ちゃんと、必要があっていてくれてたんですよねー。

不安などを押し込めようとしちゃうのは、
その不安感みたいなものを自分が生み出している。
なんて誤解があるからだったりするんですよね。

だから、コントロールできると思ってるんですよ。

で、押し込めようと抵抗するとどうにもしんどくなるんですよね。

でも、いたわりつつ、そこにいさせてあげるとね。
そこには全然しんどさは無いことに気づくかもしれません。

いることを許されて、いたわってあげるとね。
不安さんは喜んでくれるんです。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

なんで、こういった探求の際にはしまい込んでた怒りとか恐怖の感情が浮き出してきますねん?

質問

f:id:takuteto:20170316221855j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

おっはよーございやす!
タクさんでございます!

なかなかダイエットがうまくいかない今日この頃、
皆様はいかがお過ごしでしょうか?

さて、今日は、探求あるあるの一つとして、
なんで、こういった探求の際にはしまい込んでた怒りとか恐怖の感情が浮き出してきますねん?
といったご質問をいただきましたので、そのことをテーマにして書いてみたいと思います。

自己探求を通して、しまい込んだはずの怒りやら悲しみが出てきてしまう。
なんてことがよくあるんですよね。

僕自身も、こんな怒りがあるなんてしらんかったー!
って言うようなもんがワラワラと出てきてビックリしたことがありました。

せっかくしまい込んでたはずやのに、、、
なんでこんな時に、、、

やっとちょっとわかりかけてきた!っていうか、
心が静かになりかけてるこの大事な時に!

ってね。
思ったもんです。

このカルマをも、解放しなければならないのか!
なんて思ったりしてねー。
なんか、そこからまた、
カルマ解放。みたいなエンドレスゲームに飲み込まれちゃう。
みたいなことになったりもしたんですよね。

なんでそんなことが起こるねん。
ってことについて、僕の勝手な解釈を書いてみたいと思います。

ま、ホントのところはよくわからないんですけどね。

僕の場合は、怒りとして出てきたりしたんですけどね。
怒りっていうのは、恐怖から来るもんだったりするんですよね。

でもって、怒りと一緒に、記憶も呼び覚まされることもあります。
大概は、子供の頃の記憶だったりしますが、
人によっては別の人生の記憶のような形で出てきたりすることもあるようです。
この別の人生の記憶っていうのが、前世という表現がされたりしてますね。

僕も、小さい時の恐怖の記憶とか、
別の人生の記憶のようなものが出てきたこともあったんですけど、
その記憶として現れるイメージは、今、作り出されているイメージですので、
そのイメージは物語のようなものですので、記憶の内容からくる分析は、
単にイメージ上の物語を分析してるようなものなので、
あまり躍起にならなくても良いと思うんですよね。

まあ、いずれにしても、自分の中に押し込まれてた、恐怖が
呼び覚まされるんですよね。

それが、不安だったり、怒りだったりといった反応で出てくるわけです。

で、なんで出てくるねん!
ってことなんですが、

僕が感じた感覚ではですね。

実は、そういった感情とかって、
奥に押し込めたつもりで、実は全然押し込められてなかったんとちゃうやろか?
って感じたんですね。

なんとかないものとして誤魔化してただけで、実は思いっきりその影響を受け続けたんやん!って思ったんです。

どういうことかと言いますとね。

例えば、不快な音が聞こえてるとするじゃないですか。
それを、「ワーワー!」って自分の声でかき消した気になっていた。
そんな感じです。

でも、その感情はかき消した気になっていても常にあって、
そして、知らず知らずその影響を受け取ったんですね。

ちなみにね。
僕の場合は、なんていうか、悲しみの記憶とその悲しみを、なんとかないものにしようっていうごまかしだったりしたんですけど、

よくお聞きするのは、
親に対してなんとか期待に応えなければ!
みたいな思いだったりね。
子供の頃は親が自分の生活の全てを握っていたりするもんですから、
親に見捨てられたら死んでまう!っていう恐怖がどこかにあったりしてねぇ。
それで、なんとか親に見捨てられないようにしよう!
みたいな思いがあったりする場合ですね。

で、そういった悲しみやら恐怖やらを普段はなんとかかき消してたりするんですけど、
暴力的な言葉とか、
口喧嘩程度のちょっとした争いごととかを聞いた時に
なぜか周りの人以上の恐怖感やその恐怖から来る怒りが湧き上がってしまう。
とか、

小さい時に火傷をした思い出があったりして、
赤いものを見ると、妙に怖かったり、、、、
とかとか、

普段のちょっとしたクセとか反応にも、
如実に抑え込んでいたはずの恐怖感が影響してたりするんだなぁ。
っていうことを感じたんです。

つまりしまい込んでたつもりになっていても、
全然しまいこまれてはいなかったんですね。

でもって、
いつしか、しまい込もうとして、
わーわー!って自分でかき消そうとするんですけど、
この自分で言ってるワーワー!といった音がね。
どんどん激しくしていかなきゃかき消せなくなってきて、
そして、ついには自分で言ってるワーワー!がうるさくてしんどくなって来る。
重たくなって来る。
みたいなね。

そんな仕組み?を感じたんです。

でね。
探求っていうのは、心の騒音を見抜いていく。
みたいなプロセスだったりするもんですからね。

心の騒音が静まっていくに従って、自分で言っていた「ワーワー!」がね。
静まっていくんですけどね。
その時に、ワーワー!でごまかしていた感情の音が蘇って来るように感じるんですよね。
ほんとはずっとあったんですけどね。

ワーワー!っていうのは、いわば頭の中のおしゃべりです。
そして、頭の中でなんとか納得いく理由を見つけて、不快な感覚を消し去ろうとしたりします。
不快な感覚は、恐怖であり、その恐怖は自分を損ない死につながる可能性がちょっとでもあるかもしれないものだったりするのかもしれません。
だから、なんとしてでもしまい込もうとしちゃってたんですね。
でも、大概はその恐怖は以前は危機だったりしたけど、今は危機じゃない。
子供の頃は親に捨てられるのは危機だけど、今はちゃんと自分で生活できてる!
みたいなね。誤解だったりする部分も多かったりするわけですね。
そうやって原因を解いていくのが癒しのワークだったりするのだと思います。

さて、そうやって、
このワーワー!が静かになって来るにつれて、もともとあった音が姿をあらわすわけです。

で、
その時に僕が思ってたのは、
こういう風に出てきた恐怖感については、
それに対峙して、自分の中から消し去ってやらなきゃならんものだと思ってたんです。

もちろん、どうしても手に負えないように思えるものについては、
癒しのワーク的なものがとっても役に立ったりするんですよね。

なので、手放そう!手放そう!と色々とやったりしてたわけなんですけど、
一個手放せたつもりになっても、また別のとこから出てきたりして、
それを癒したら、また別のところからピョコンって顔をだしてきたりしてね、
もう、モグラ叩きか!
っていうくらい次から次に出てきてたりしてたんです。

で、
「もうええ!知らん!」
とそのまんまにしたった時に、なんだか楽になった感じがあったんですよね。

あ、そーか。
これもあってよかったんやねぇ。
何を邪険にすることがあったのか。
これは自我ちゃんの正当な働きなんじゃないか!

ってね〜。思ったわけです。

なのでね。
そのまんまにいさせてあげたらええですし、
たまには、いたわってあげたらええんですよねー。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします