Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

不安ちゃんと恐怖ちゃん

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不安やら怒りって起こったりしますよねぇ。
そんな不安や怒りって突き詰めていくとその原因って
大体は死の恐怖につながってくると思うんですよね。

共通の恐怖。それが死の恐怖やというわけです。
でも実は、身体的な死の恐怖というよりは、自分の死の方を恐れとるのかもしれませんね。

今日はそんな話を書いてみたいと思います。

 

みーんな死ぬのを怖がってますが、だーれも死んだことは無いわけで、
死んだことがある経験者っておらんのですよね。

つまりわからんわけです。誰も。
そして、そのことが余計に怖いに拍車をかけてるのかもしれませんね。

生死を語るのであれば、まずは誰が死ぬんや?ということと、それ以前に、
誰が生きとるんや?っちゅうことをまずははっきりさせなきゃなりません。

誰が生きとるんや?
と言いますと、まずは、
自分が生きてる。
と思いますよねぇ。

でもじゃあその自分ってなんや?
と言いますと、やっぱり身体や!
ってなると思うんです。

身体が死んだら自分は存在できなくなる。
だから怖いねん!

ってね。

でも、身体ってちょっと不正確ですよね。
これ、常に新陳代謝しとるわけでして、身体という普遍的な個別の個体があるわけじゃありませんのでねぇ。

あらゆるものの組み合わさりと関係性の中で常に変化を繰り返しているのが身体ですし、、、。

変化を死と表現するのであれば、常に死んだり生きたりを繰り返しております。

となると、その変化を失うのが怖いねん!

と思うかもしれません。

でもこの変化って、失われたことはないんですよねー。
連綿と続いておるんです。

ずーっとね。

精子と卵子が結合して、分解して形が常に変化を繰り返して、生活の場が胎内から別の場所に変わり、さらに変化を繰り返して、食べ物を取り入れて結合したり、空気とつながって循環したり〜。

てな具合でね。

身体も全ての変化の中のイチ表現なんですよね。

しかもですよ。
当たり前に、身体が自分や!って思ってたりしてますけど、
じゃあ、いつからその身体は自分やとハッキリと認識しとるねん?
と言いますと、大体は、
んー?2歳か3歳くらい???
ってなったりするんですよねー。

身体というのは、ずっと変化をしてて、その変化の中、
そのある地点を引っ張り出して、それを自分やとしたから、
身体が失われると自分が失われるって思ってるっていうことになりますよねぇ。

でも、それやったら、自分って身体とは違いますやん!別もんですやん!
ってことにもなるんですよね。

となるとですよ。
もし、身体がね。
なくなったとしても、一切自分は失われることはない。
みたいな事が確信できたとしたらどうでしょう?

「うん。それなら怖くないわ」ってなるのかもしれませんね。

でも、そんな確信は持てないですからねー。
やっぱり怖さは残るわけです。

となるとですよ。
よくよく、なにが怖いのか?
っていうのを見てみると、

確信がないから怖いんちゃうんか?
ってことになると思うんです。

確信がないっちゅうことは、わからんっちゅうことですね。
わからんもんが怖いんです。

しかもね。
自分が失われるのが怖いと言いながら、それは身体だったり、
心情だったり、尊厳だったりと色々なわけでして、
結局のところ、自分というのはどこかに確立されているわけでもないんですよね。

そうなりますと、自分っちゅうのは後付けされてそれっぽい理由づけに利用しているだけであって、ホントのところは、
「わからんが怖い」だけがあるだけちゃうんか?
とも思うんですよね。

「わからんが怖い」っていうのが単に起こってるだけちゃうんか?
っていう感じ。

それって、もしかしたら、単なる生存本能の信号が起こっとるだけとちゃうん?
これはそういう本能として働いておるっちゅうわけで、

「ハッハーン。おまえ、、、もしかしたら、単なる生理現象みたいなもんやな?」

生理現象ということは、暑いとか寒いとか、
腹減ったとかトイレ行きたいっていうのと同じようなものっちゅうわけですね。

そんな風に見抜かれちゃうと、アタフタするような大げさなもんやなかったことが明らかになるかも知れませんねぇ。

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非二元話は役立たずです。でもって、役に振り回されんでええやんけ!ということでもあります。

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ちょいまてーい!

人として生きていたら、どうやったって嫌なことも起こるやろし、怖いこともあるやろう?

「全てが完璧。すでに愛に満ちている。」

っていうのであれば、
なんでアタシは振られるんやー!
愛してもらえへんのんやー!

ゆうてね。

ちょいまてーい!な事って結構起こると思うんですよね。

その度に、
あれ?
なんだかんだで、非二元という話にたどり着いたけど、
これも、もしかして、ちょっと間違ってるんじゃ無いのん?
もしかしたら、まだ自分が何かを見逃しているだけ?

なんてねー。
思ったりすることがあるかもしれません。

 

これもねー。
多分、なにかしらを取っておこう。持っておこう。
そして、自分が何者かになろう。
っていうねー。
完全な自分になれば全て解決!っていう誤解がベースにあって、その誤解を持ったまま、
非二元なりなんなりの話を掴んで、この自分というまな板の上に引っ張り出してやろう。
っていうところから現れとる疑問やと思うんですよね。
これで完璧!と思えるありとあらゆる観念をもってきても、結局思い通りになるような観念はいつまでたっても見つからないもんですから、完璧さへの探求はいつまでたっても終わらないってなことにもなったりするんですよねん。

物語ってね。
やっぱりその物語の中心っていうのが絶対に不可欠なんです。
そして、その中心から展開していくわけですので、
最初にやっぱり中心となるなにかしらの拠り所を必要とします。

その中心となる拠り所を、より良いもの、より完璧なものにしていきたいので、新しい拠り所探しっていうのが尽きないんですよねー。

その拠り所探しっていうのが探求やというわけです。

でもって、探求の終わりっていうのは、中心っていうのは無いねん。
展開されとるのは、でっち上げられた中心から展開しとる物語のようなもんですねん。っていう見抜きであって、
これが見抜かれれば見抜かれるほどに、
中心のなさを突きつけられ、もうどこにも拠り所というのは無いんやで!ということも突きつけられて、降参するしかないっちゅうことでもあります。

するとね。拠り所に安心を求めてたという事が明らかになるわけでして、安心を求めてた事が同時に不安を呼んでおったということも明らかになるわけですね。

それが打ち消しあうと、
残るのは安心ということになるんです。
不安の不在とも言えるかもしれませんね。

安心か不安か?といった二者択一の消滅とも言えますし、
そもそも、安心とか不安っていうのは最初からなかったという発見でもあります。

結局ね。
この話って、
心の想念っちゅうもんに振り回されなくてもええんやでー。
そういうもんに支配されなくてもええんやでー。
っちゅう話なんです。

だから想念の中の問題を解決すべく役立てる話じゃないんですよね。

想念は実体はないのでなんぼでも出てくるでしょうし、
それはそれで出て来させておったらええんですけどね。

もし、その想念の声にしんどくなっとるんやとしたら、
それは、もしかしたら、その想念の声をちゃんと聞いて解決してやらにゃならない。
その想念に付き合ってあげなきゃならない。
っていう誤解が根っこにあるんかもしれへんでー。

ぶっちゃけそれって、想念の支配下に置かれとるっちゅうことでもあるわけですが、
そもそも単なるイメージでしかないその想念に支配されることなんてあらへんのやでぇぇぇ〜!

っていう一つの提案なのでございます。

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思考や感情を追い出すのってムリゲーやん?

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よくもらう質問で、
「話はホントよくわかるんですけど、やっぱりまだまだ
思考や感情が重苦しく襲いかかってくるんです〜。」
「思考が物語だとわかっていてもやっぱり起こってくるんです〜。」
みたいなニュアンスのものが多いんですけどねー。

ま、思考や感情が殴りかかってくるわけじゃありませんので、襲いかかってくることはないと思うんですけど、
もし、ある種の思考や感情が「あってはならぬ!」ってどこかで決めていたジャンルの事やった場合は、どうにも重苦しく襲いかかってくるような錯覚が起こってるんやと思うんですよね。

また、
「どんな思考や感情も物語なんやからそこからワイは解放されるで!」
ってどこかで決めてたのだとしたら、
思考や感情が現れるたびに、
「あかん!まだ解放には程遠いで!」
って思ってしまったりするんですねー。

 

でね。この話っていうのは、別に
思考や感情が現れなくなるっていうのとは違いますのでねー。

思考も感情もないロボットのような人になるっていうのとは全然違います。
これは何かにならねばならないという思い込みのクセからの目覚めの話なんです。

思考とか感情とか
そんなもん変わらずに起こり続けるんですよね。
でもって、
「それは幻想やで!」って思ってみたとしても、
その「幻想やで!」っていうのも思考の声なわけです。

またね、
この重苦しい感情は幻想のようなものだから心配しなくてもいいよね!
って自分に言い聞かせる方便をゆうてるわけでもありません。

まあ、実際のところ、心配の必要性は一切ないんですが、
それは幻想やから安心、嘘やから安心とかそういう事ではないんですよねー。
幻想やとすると幻想じゃない本物の何かがどこかに存在するのか?
と言いますとそんなこともありませんのでね。

どんな思考や感情もそりゃ起こるわけでございます。
でも、それになんの強制力も無いんですよねん。

せやからほっておいても良いですし、聞いてもいいわけです。
ただ、その思考の網にとらわれる必要は全くないっちゅうわけですね。

でもって、囚われるというのも単なる思い込みであって、
誰も最初っから囚われてすらいないっちゅうことなんですよねー。

いずれにしても、問題があると思われる思考や感情の中に問題があるというよりは、
その大前提にある「あってはならぬ!」っていうある種のポリシーの方が、そういった思考や感情を問題視しておるわけでございます。

そうかなるほど!
ではこのポリシーを浄化しなければ!
ってなるのかもしれませんが、

まあ、そのポリシーも単なる言葉にしか過ぎませんのでね。
別に浄化が面白ければやればいいと思いますが、
言葉は言葉として単に置いておいたら良いんですよねー。

置いておくというのは、
思考や感情の声に対して、
「ほほう。。。あっそう!」って返事だけしておくって感じでしょうか。。。

で、特に何かを限定しない全体にリラックスしてみることを優先させたったらええんですよねー。
リラックスしたら動けなくなるってわけじゃありません。
リラックスしながらも色々とやれるんです。

「リラックスとはこういうものだ!」
っていうのもある種の限定ですのでね。
限定をすると、全体を見失うわけでございます。

だからといって、目を閉じたらいきなり床が抜けるというわけでもなく、
見ようが見失おうが全体は全体ですのでそこから分離することはありません。

分離感とは、分離したつもりを演じとるだけなんですよねん。

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人のアタマの中以外は淡々とあるがままやったりして。

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Facebookとかツイッターとかで、テンション高めのメッセージとか読んでると、
たまにちょっとプッて笑っちゃうんですよねん。
何が面白いのかと言いますと、もちろん僕もそうやねんけど、
メッセージはこんなにテンション高いのに、本人がそのメッセージを打ち込んでる様子って、ホントはメッチャ「素」なんやろなー。なんて思ったりしてね。
その落差を想像してワロてしまうんです。

というわけで、おはようございます。タクさんです。
僕も今、カフェで若干ニヤつきながらも無表情でこの文章を書いていますよん。
心持ちはウキウキしとるんですけどねー。

 

こういう話って、なんか何かをはぐらかしているような感じを受ける方もおられるかもしれません。
何を聞いてもわけわからんやないか!
ってねー。
そういう時ってちょっと心苦しい感じもするわけですが、もちろんはぐらかしてやろうと思ってるわけじゃあございません。

わけがわからんのってある意味正解であって当然なんですよねん。

「それ」ってわかる話じゃありませんので、どうやってもわけわからん!ってなってくるんです。

もうどうにもわけわからん!っていうのはある種チャンスと言えるのかもしれません。

わけがわからんけど、なんとかわかろうとする。
その働きの根源を見てみたら良いんです。

その根源に何かがあるわけじゃないんですが、わかろうとする働きがあることをみてみたら良いんですよねん。

そして、その働きの実体のなさもみてみると面白いかもしれません。

目の前の空間は何事もないように変わらずに佇んでいます。
シラーっと佇んでます。
そんな中、わからんとどうにも落ち着かんで!退屈はイヤや!みたいな働きが、
何かをつかもうとしているように見えるかもしれません。
その働きは一見強烈に感じるかもしれませんが、実体はありませんので、
正に
「めっちゃテンション高い文章をSNSに打ち込んでるのに、見た目はメッチャ無表情。」
みたいな感じでね。実は起こってるようでなーんも起こってなかったりしてね。

なんかこの様子をプッと笑えたらめっけもんかもです。

何かを掴んだ気になっているのも同様で、誰も何も掴んですらいないんです。

何かを掴んだら何者かになれるという思い込みも的外れやったんですよねん。

そして、手放そうと頑張っていた観念も、実体のない蜃気楼の様なもんだったんです。
二元の現象界と非二元という別々の世界があるわけでもなく、
特別な人と普通の人がいるわけでもなく、
覚者と凡人がいるわけでもないんです。

だから、色と空があるわけじゃなく、
それらは分離すらしてませんので、色即是空、空即是色だというわけです。

そのまんまで、すでにそれそのものですので、オープンシークレットだというわけですし、
ありのままの真理の体現をブッダだと言うのであれば、みんながブッダなんです。

そして、こういった全ての表現も、単なる言葉のアヤなんですよねー。

物語というのは言葉が紡がれたものですよねぇ。
つまり言葉で構成されたものはすべて物語なんですよねん。

よく、ファッとしたならその中でリラックスすりゃええねん。みたいなことを書いてたりするわけですが、
このファッ!の中には言葉はありません。

言葉の中に何かを探すとしたら、キリなくあらゆる物語が展開されるんですよね。
自分という観念も、
時間も、
人生も、
ありとあらゆる指針も、
全て言葉の中にしか存在せず、その全ては言葉で紡がれた物語やったんです。

このメッセージも、言葉で受け取るとそれは単なる物語となっちゃいます。

あらゆる言葉を一切置いておくと、掴む材料は無くなります。

その中でムホホーンっとリラックスしてみたら良いんです。

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私が消えるというよりは「それ」が私を取り込んできよるんです。

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ほいほいほほほいほい!
というわけで、おはようございます。
タクさんです。

僕ねぇ~。
なんていうか、元来のめんどくさがりなんですよー。

そんなめんどくさがりの僕がよくこのブログは続いとるなぁ。
なんて思うわけですが、
ブログの記事で書いたことは、アップされる頃にはほぼ忘れてたりもします。
で、
ちゃんと整理して書くのはめんどいので、なんていうか、
使う言葉もノリで選んでいるのでバラバラですし、表現しているいわゆる段階?
段階っていうとちょっと語弊がありますが、
まあ、レイヤーって言いますかねー。
それも結構バラバラなんですよね。

なので、
メッセージはよくわからなかったら思いっきりスルーしてくださいねー。
自分の中でファッとなったなら、メッセージじゃなくてそのファっていう自分の中でリラックスしてみてくださいねー。ってゆーたりもしてるわけです。

誰かのことや、誰かの表現を信じるっちゅうのは意味ありません。
信じるとか信じないっていうのは、結局は判断からくる物語が展開してるだけですので、
それはキリがありません。

なので、こういうメッセージに対しては信じる必要はないんですよねん。

で、実際のところは段階なんてもんもなく、あるのは「それ」だけなんですので、
あまり段階っていう事にこだわる必要はないんですが、
今日はあえて段階について書いてみようかと思います。

 

そもそもね。
毎日、のほほーん♪ってしてて、楽しくて、何でも思い通りになってて、、、。
てねー。
そんな毎日なら、こういう話に興味がわくことなんて無いと思うんですよね。

なので、興味がわくという事は、なにかしらの好奇心か、もしくは不自由感とか苦があるんだと思うんです。

それははっきりと理由がある場合もありますし、漠然としたものかもしれません。

そういう場合は、まずは、自分に何かしらの苦があることを見てみないことには始まりませんよね。

でもこれ、結構見逃されやすいんですよねー。

苦なんてあまり見たくもないので、その苦そのものとは向かいあおうとせずに、
すぐにこれを消すにはどうしたら良いんだろう?
みたいな方法論ばっかりをを探究しちゃったりするんです。

それだと、いつまでたっても苦にフタをしてごまかし続けることになっちゃったりするんですよねん。

なので、
どうしようか??
この重苦しさはどこからくるんだ!
どうしたら楽になれるんだ!!
とアタフタするよりは、ちょいと落ち着いて、
まずは「自分が苦しんどるみたいやで?」ってところを見てあげたら良いんです。

あれこれと理由が言葉となって湧き出てくるかもしれませんが、言葉は一切おいておいて、とにかく、何かしらの苦しみが自分にあるっぽいで?って落ち着いて見てみるんです。

それを見てみないことには始まらないですからねー。

でね。
よーく見てみると、その苦には、ある種の観念が原因になっとる。っていうのも見えてくるんです。

その観念を掴んどるから、その観念に沿わないものが「苦」となっとるっちゅうわけですね。

そこまで見てみるんです。

そうやって見てみますとね。その観念へのつかみ取り。すなわち執着。こだわり。
そういった掴もうとするエネルギーっていうかね。
そういうのが何かを掴んどる。っちゅうのも見えてくるんですよねー。

で、もっともーっと見てみますとね。

ちょwwww

その観念も掴もうとしとるエネルギーも全部イメージやんけ!

みたいなね。

そういう動きも観察できることに気づくんです。

なんでもかんでも見れるやんけー!
っていうね。
で、見れるからには、これは風景のようなもんという気づきもあったりします。

こうなるともうめっけもんで大分楽になるんですよねん。

ただ、やっぱりまだ、見てるからには、そこには自分というクセづけといいますか、観念が残っとるんですよねー。

そして、大体はこの静寂と執着を行ったり来たりしちゃったりするわけです。

で、なんとか、この楽な気づきの状態を保とうと頑張っちゃったりしちゃうわけですね。

でも、やっぱりそれも、物語に過ぎないわけです。

つまりね。
ありとあらゆるカルマなりこだわってたなにかが取れ去ったら純粋な自分になる!っていうのもひとつのコンセプトに過ぎないっちゅうわけなんですよねー。
つまりは概念やというわけです。

そんな自分すらおらんわけです。
どこを探してもね。

全てを見ている自分すらも観察できてしまうんですよね。

じゃあ、私はどこにおるねん???って言いますと、おらんわけです。

そもそも、見てると見られているっていう関係性がないんです。
主体と客体なんてなかったわけなんです。

なので、あるのは「それ」だけなんですよねん。

僕らは「それ」を求めていると同時に、「それ」を避けて「ワタシ」という観念の中に逃げ込んでいたんです。

よく「私が消える」「私の終り」みたいな表現があったりするんですけどね。

僕の感覚では、「それ」からは逃れられることはなく、逃れたこともないということを思い知るっていう感じかなーって思います。

私が消えるというよりは「それ」が私を取り込んできよるんです。

最初っから「それ」から逃れられたことはないんやでーって突き付けられるんです。

そうなると、静寂だろうが執着だろうが、私という観念だろうが、目についたウロコだろうが、
それも含めてぜーんぶ「それ」そのものであり、良くも悪くもなく、それでいて、それが好きだろうが嫌いだろうがどっちでもいいってことになるんですよねん。

何者になるわけでもなく最初っから「それ」ですし、
誰かが行為する余地すらなく「それ」しかないんです。

手放す何かがあるわけでもなく、全ては許されています。

嫌いなものを許すでもなく、インナーチャイルドを癒して許してあげるでもなく、
最終的には、「それそのもの」を許してあげる。

っていうか、
許されていたことを突き付けられるんですよねん。

全体であり赦されている。
最初っからそうで、そうじゃなかったこともない。

なので、普遍の愛であり、無条件の愛と表現されたりしとるっちゅうわけです。


段階とか言いましたが、何処かにあると思っていた最終地点はすでに完璧であったこのスタート地点であり、どの段階であってもこのスタート地点から離れたことはなく、全てだったんです。
なので段階すらなかったってことに落ち着くんですよねん。

と言うわけで、ざっと駆け足で書いてみましたが、また機会があれば、もちょっと丁寧に書いてみたいと思います。

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全てはぜーんぶ同価値ですし、、、。

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全てはぜーんぶ同価値なんですよねー。
だから、何かがすごくて何かがダメっていうことはないわけです。

でもって、好きが良くて嫌いが悪いということもありません。

笑ってるのがよくて、泣いてるのが悪いわけでもなくぅ〜、
そして、楽しいのが良くて、苦しいのが悪いわけでもありません。

もうその辺は徹底的に同価値なんです。

 

でね、全てが同価値やとしますとね。
もう全てが素晴らしいとも言えますし、全てに価値はないとも言えちゃうわけなんです。

でも価値がないって聞いちゃうとしょんぼりしちゃいますよねぇ。
そのしょんぼりも見当違いってことですので、しょんぼりすることはないんですよね。
価値というのはそもそも差がないと発生しませんので、その差をでっちあげないかぎりは起こり得ないんです。
で、価値があるように見えるということは何かがでっちあげられとるっちゅうわけです。

様々な現れがあり、その様々な表現は互いにひとつながりです。
これは、別にガッツリと一つにつながっているというよりは、
単に分離というコンセプトを当てはめない限りはそこに分離がないということです。
分離というコンセプトを当てはめることによって、個性や個別のモノがあるように見えているんですよねん。
で、その個性を何かしらのコンセプトでもって他の個性と比べるとき、
そこに価値の差や表現の違いがまるであるかのように見えるわけです。

単なる表現の違いがあるだけなら、それはそれで以上ってことで終わりなわけですが、そこに価値の差が見えるということは、どこかにその価値を測る架空のモノサシがあるというわけです。

色と空。
精神世界と物質世界。
豊かさと貧しさ。
キリンさんとゾウさん。

これらは整理分類されたコンセプトです。

全体が全体として表現している中で、
何かしらのコンセプトのもと整理整頓して、それを分類し、
さらにそこに価値の差を付け加えると、次はその差から物語が生まれます。

「誰かと比べて、自分はまだまだだからもっとウンヌンカンヌン。。。」
「あいつの考えはダメだ!僕の方が偉いんだいっ!」
「あの聖者さまがおっしゃることはまさしく真実に違いない!」
「ちちちち、、、ちがうわっ!!!!!どどどど、ドーテイちゃうわっ!!!!」

っていう頭の中のおしゃべりみたいなやつですね。

でね、ややこしいのは、そうやって判断が生まれるのもまた全体の表現やというわけなんですね。

あかん!想念に取り込まれとる!って思ってなんとかしようとするなら、それもまた一つの想念ですからねー。

頭のおしゃべりがあるならそれもまた全体の表現やというわけです。

この全体の表現から目を背けると、目を背けてますので、全体性は見えません。

でも、この全体はまさに文字通り全体ですので、もう目の前っていうか目の中までもが全体に溶け込んでおります。

だから離れようがありません。

見抜かれてようが、取り込まれてようが、目を背けてようが、それでもうすでに「それそのもの」なんです。

その全体にリラックスするというのは、何かを何かとして見なそうとするクセを置いておくっていうことです。

これって、あれこれわかろうとするその衝動をちょっと置いておいてみる、ということでもあるんです。

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自分というものにこだわるとこだわった分だけ不自由になる。そしてそれで全然良いわけで。。。

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生きてるだけで丸儲け!
これはさんまさんの座右の銘だそうで。

娘の名前もこの座右の銘から命名された「いまる」ちゃんですので徹底してますねー。

でもね。
ほんとそうやと思うんですよ。
もうすでにカンストしておるんです。
最初っから100点満点なんですよね。
生まれた時点でね。

もっというと、生きてなくてもすでに丸儲け分は頂いておるわけです。
すでにどうあっても満点なわけです。

満点ですので、あとは何をしても点数が加算されることはないわけです。
好きに楽しめば良いわけですね。

 

修行を楽しく勤しむのもよし、
名声を得たいと頑張るもよし、
寝るもよしでございます。

すべてはおままごとのようなもんです。
加点されないボーナスステージです。

なので、ホント好きにやればええだけなんですけどねー。
でもって、別になーんにもしなくてもべつにいいわけです。
生きてる証を残さなくても、それでも素晴らしい人生なんですよねん。

どんな偉業の達成も、
あやとりが上手というのと同価値です。

満点という意味では同じことなんです。

生と死と人生というものも、ひとつの観念にすぎませんのでフリーなスペースに起こる物語のひとつです。

そんな中で、
自分という観念と、そこから付随する様々な観念を作っていくわけです。
観念は、より良い人生を送るためのノウハウだったりするわけですねん。

この観念が楽しく機能している分には全く問題ないのですが、
そこにこだわりが強く作用すると、その強さの分だけ、観念の範囲に対するこだわりも強くなってきます。
すると、この範囲の中に自分という観念を閉じ込めてしまうんですよねん。

もっとこだわりを強くしていくと、その範囲はどんどんと狭くなってしまいます。
そして、狭くなった分だけ不自由感を感じちゃうんです。

この不自由感があると、今度は自由さを求めちゃったりするわけですが、
その自由さは不自由があってこそ成り立つわけですので、
また余計に、自由へのこだわりをこじらせちゃうことにもなったりして、、、。

つまり何かを得ようとしても、どこかに自由や解放といった何かがあるわけじゃなくて、あるのは作り上げられた範囲だけやったんです。

そしてこの範囲は実体としてあるわけでもなく、観念としてあるだけだったわけです。
つまりはイメージなんです。

観念とは、作り上げられたルールの組み合わせを一つのパッケージにしたものです。
そして、作り上げられた中のルールはいつしか忘れられて、パッケージだけが注目されてるんです。

なので、無意識的に観念は考えるまでもない大前提となってしまっていたりするんですよねん。

まずは、その観念を発見してみないことには、どういう観念があるのかさえ気づかなかったりもするんです。

だからといってその発見に夢中になるのもまた考えもので、
観念の発見はそれはそれで良いようにも見えますが、
まあ、ぶっちゃけキリが無かったりするんですよねー。

そうかこれが観念やったんか!とその時は安心したりもするわけですが、
そのうち、この発見もまた一つの観念になっちゃうみたいなこともあるわけで、
ちょっとしたイタチごっこにもなったりしてねー。

例えば、「そうか!人の顔色を気にしなくても良いんだ!」という発見があったとしても、
そのうち「人の顔色は絶対に気にしない!」みたいなこだわりに変化しちゃったりね。

いわゆる静寂へのこだわりみたいなものも、一つのこだわりなのかもしれませんねー。

なので、癒しのワークも最初は良いかもしれませんけど、いつしかキリがない堂々巡りになっちゃったりもするんです。

なので、ある程度のところで、「もうどっちでもええわ!」ってほっておいたったらええんです。

もう、最初っから100点満点で、ワイがこだわっとる分だけ不自由感を感じたりもするけど、
それだってどっちでも良いんだし、、、。
呑気にリラックスしてましょ。。。
モナカアイスでも食べましょ。。。

ってな具合でねー。

観念も単に観念としてとらえとるだけで、それも含めてそのまんまです。
「ああ、そうかー!」それも含めて、もうすでにそのまんまやったんやーん。
だからもう満点なんですやん!

ってことなんですよねん。

最後ちょっとややこしかったですかね?
今度違う表現で書いてみますね。

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