読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

我に帰ってる時が実は物語だったりしてね。

それのこと

f:id:takuteto:20170326210952j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

こんなことありません?

フンフンフーンって軽快に歩いてたり、
ホンホンホーンってご機嫌に皿洗いなんかをしてる時にね。

ハッ!っと我に返って、
あかんあかん!
浮かれとる場合やないねん!
来月の家賃の工面をしとかなあかんねん!

さてさて、、、
どうするかー。

ああしようか?
こうしようか?
でも、ああしたらこれの具合が悪いし・・・。
なんて、考えちゃったりしてね。

たまにね。

まだ、私の中には私がいて、
私がいませんにはならないんですー。

ってね。
言われたりするんですけどね。

で、
「それは、私がいるって思ってる時だけおるだけですよー。」
「雨ふっとるわ〜!って思ってる時だけ、雨を認識してるのと同じでねー」

なんていうわけですが、
どうも僕の例えが悪すぎるんだと思うんですが、
雨=よくない感じのこと。
そして、今の私は、まだ私がいるので雨の状態。。。

みたいな捉えられ方してるなぁー。
って感じたりしたことがあるんですけどね。

そういうことじゃなくて、
誰にも最初っから「私」なんていてなくて、
そして、「私はいる」って思ってる人がいるとしても、
四六時中「私」がいるわけでもなくてですね。

結構、おらん時の方が多かったりするんですよね。

ハッって我に返って、あれこれと頭の中でおしゃべりしてる時だけ
架空の「私」という中心点を設けてるだけであってね。
普段は結構おらんかったりするんですよね。

なので、もしかしたら、我に返った!っていう時が物語で、
それ以外が真実だったりするかもしれないんですよねー。

そうそう、
僕、ちっちゃい時、
ヘリコプターが好きでしてね。

飛んでるのを見つけた時は、
「ヘリコプターやぁ!」ゆーて、見てたんですけどね。

その「ヘリコプターやぁ!」っていってる時だけ、
ヘリコプターがあるのと同じでね。

「ワタシやー!」
って言ってる時だけ私がいるように感じてるだけなんです。

「私はいません」
っていうのは、
そういうことを見抜いてるだけの話なんです。

見抜く誰かはいてませんので、単に見抜かれただけなんですけどね。

対象やと思ってたものは自分が見てるもんじゃなくて、
単に対象しかあれへんかった。
自分という思いも何もかもがその対象の中にあり、
対象しかないとなると、対象ですらなくなり、
ダイレクトさのみ!となるんです。

そのダイレクトさのみ!が単に見抜かれとるんです。

ヘリコプターやー!っていう感じもダイレクトさなら、
私が!ってのも同じくダイレクトさなんですけどね。

ややこしくなってきたので、この辺で今日はやめておきます。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

ダメこそ正義!ダメこそカワイイ!

あるがまま

f:id:takuteto:20170326210930j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

ダメこそ正義!
ダメこそカワイイ!
ダメこそが真理なんです。

どうしてもねー。
こういった自分の内面の探求なんかをしてるとですね。

普段は蓋をしていて見ないようにしてた自分にね。
対面せなあかん場面ってなもんがあるんですけどねー。

だいたいね。
みんな、自分のことは少しはマシなやつ。
って思ってたりするんですよ。

中には、俺ってとってもいい奴!って思ってる人もおるかもしれませんけどね。

僕も、自分のことをもっと認めたったらええねんで!
ってなことを言ったりしてますけどね。

それって、あんたはいい奴なんだぜ!ってこととはちょっと違ってですね。
たぶん、みんなダメダメなんだろう。
ってね。
思ってるわけです。
僕だってダメダメですしね。

うまいこと隠してる人もいますけどねー。
基本、みんなダメダメです。

よくね、他の人の批判をすることで、
自分はイケてるでー!ってなアッピールをしてはる人とかいるじゃないですか。
あれはもう全然隠せてないですけどね。

と、いうわけで、人は基本的にダメダメなわけです。

つまり、ダメが基本なんです。
なんていうかですね。

ダメが真理なんです。
ダメが究極の悟りなんです。

何やねんそれ、、、って思うかもしれませんけどね。

ダメじゃない状態っていうのはね、
何かしらであるべきっていう、いわゆる正しさに乗っかってるってことなんですよ。

別にそれが悪いことじゃないんですけどね。

逆にダメな状態ってのは、この「〜〜であるべき」に乗っかってないってことなんですよね。

せやから、ダメで良いわけなんです。

「〜〜であるべき。」
みたいなことって、もう無限に作れるじゃないですか。

金持ちとか、どこどこ出身とか、人種とか、どんな仕事とか、
覚醒してるとか、悟ってるとか、新発売のゲームを持ってるとか、
ドラクエを早くクリアしたとか、イケメンとか、足が速いとか、
背が高いとか、歌が上手いとか、霊感が強いとか、
人の役に立つべきとか、尊敬される人格とか、
カリスマ性があるとか、ラーメンが食いたいとか、、、

こういうのを聞いてね、
どうでも良いと思うことと、
そりゃ、そのほうが良いよねぇ。
っていうのとがあると思うんですけどね。

これらって、全く同じですからね。
どうでも良さという面でね。

つまり、どうでも良いんです。
全部。

で、自分の中で引っかかる部分が多ければ多いほど、
ダメな部分があったりすると思うんですよね。

なのでねー。
ダメな自分への対面を恐れなくても良いんですよね。

それって、「〜〜であるべき」っていうね。
こだわりがあるからダメって思ってるだけでね。

ダメじゃないんですよ。
ホントはね。

そして、そんなダメな自分を愛でてあげるんです。

言いがかりをつけられて押し込められてたようなもんですからね。
「〜〜であるべき」
っていうのは、言いがかりみたいなもんなんです。

そして、その言いがかりでもって、自分自身を不当に扱ってたんです。

不当に扱ったぶん、十分に愛でてあげなきゃかわいそうなわけなんですよね。

そして、そんな言いがかりをしちゃった自分も、
テヘペロッ!
テヘペロン!
ってな感じで、ペロンと許してあげちゃってくださいませ。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

何かに光が当たっても、陰に包まれても、何かが変わることはないわけでして、、、

それのこと

f:id:takuteto:20170326210901j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

おはようございます。
デッサンが苦手なデザイナー。
タクさんです。

いやねー、学生時代なんですけどね。
絵を描くのは好きなんですけど、
めっちゃ絵が下手だったんですよね。

で、デッサンを習ったら上手くなるのか?
ってね〜。
デッサン教室を覗いたりもして見たんですが、
あんなチマチマした作業を何時間もカッタイ椅子に座ってやってられるかー!

ってね〜。
デッサンも全然あかんかったんです。

で、美大は諦めて、普通の大学に行ったわけですが、
大学も卒業ってことになって、
仕事は嫌いなんですけど、何かしらの仕事はせなあかん。。。
ってなことでねー。
ま、今はデザインの仕事をしておるわけなんですけど、

デッサンってね。
まあ下手くそがいうのは何なんですけど、
あれって、カゲを書いていくんですよ。

普段黒いと思っているモノものね。
光が当たっている部分は真っ白ですし、
黒って色を見てる時点で、実は黒じゃなくて光なんですよね。

僕らの目って光の反射を見てるわけですから、
目に見えてるもの全部が光なんです。
で、光があるなら影ができるわけです。

デッサンではものの形とカゲを書き写していくってわけなんですねー。

光があれば影がある。
っていうわけですわ。

どっちが良くてどっちが悪いとか、
そんな区別もなく、意味もなく、
ただ、光と影があるわけでねー。

僕はよく、瓶なんかを描いたりしてたわけですが、
その光と影の当たり方によって、
この瓶は全く違う姿をしとるんですよねー。

光がガンガンにあたってる瓶。
暗がりの中、うっすらとした光の中に佇んでる瓶。

これらはねぇ。
もう全然違う描き方をせなあかんくらい違うんですよね。

で、何が言いたいのかと言いますとねー。
光が当たってようと、
暗がりやろうとね、
瓶自体は何の影響も受けてないっちゅうことなんです。

あまりに影が濃いと瓶が割れてしまう。
影の力で割れてしまう!!!
なんてことはないわけでございます。

ほら、
僕らってやっぱり、楽しいのがいいじゃ無いですか。
で、悲しいのは嫌やってね〜。
思ったりもするもんですけど、

生きとったら、楽しいこともありゃ、
泣きたいこともあるわけですよねー。

泣きたい時はね、泣けばええんですよ。
それがなんか悪いことなのか?というと
全然そうじゃないと思うんですよね。

影が瓶を破壊することはできないのと同じで、
本来のあなた自身は、笑ってても泣いてても、
どっちでも、包み込んでくれております。

そして、どんなに影が濃いように思っても、
大丈夫なんです。

心の中の重さは取れないかもしれないし、
キズは癒えないように思うかもしれない。

でも、それが何かしらのキズを作ってるわけじゃなくてね。
本質を傷つけることってないですからね。

あなた自身はいつまでもピュアで綺麗なままです。
光が当たっても、影が濃くても、
瓶は瓶のままあるのと同じでね。

損なわれるかもしれない!という恐怖。
この恐怖は、暗い影に瓶を置いておくと、瓶が影の力で割れてしまうかもしれない!
っていうような誤解に似ているのかもしれません。

でも、瓶が影のせいで割れるわけはないのと同様にね。
あなたは元々、大丈夫なんですよね。

泣きそうな自分は受け入れず、笑う自分だけを受け入れるんじゃなくてね。
笑えるようになるのでもなく、
笑って泣いて、そんな自分を愛でてあげてください。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

ワタシが生み出す誤解の物語

私はいない それのこと

f:id:takuteto:20170321220218j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

まあ、なんて言いますかねー。
ワタシっていう感覚ね。
それが無いだけなんですわー。無いっていうか誤解に近いっていうかね。

感情とか思考とか色々あると思うんですけどね。
それはそれで全然良いんですよ。
それらはそれらでちゃんと完璧に起こっとるわけですからね。

で、それらはワタシやないんです。

なんていうか、在るっていう感覚はみんなあると思うんですよ。
で、それにワタシっていう観念をつけとるだけなんです。

この観念があるからね、
私と私以外という物語を作り出すわけでね。

で、そうなると、この私はちゃんとしてなきゃならないものに発展するわけですね。
物語の中でね。

でもって、私を守らなきゃならなくなるんです。

で、守るためには、ちゃんとしとかなきゃならないし、ってね〜、
ドンドン発展していくわけで、

この私をちゃんと守らなきゃ、唯一あるこの在るっていう感覚。
これが無くなる!
ってね〜、誤解しとるわけなんですよね。
なので、無くなる恐怖っていうのが、ワタシっていう観念の奥にあるわけです。

身体があろうがなかろうがね、
この在るは無くならんのですよ。

現に身体は常に起こっては消えていっとるんです。

20歳の頃のピチピチな僕はとっくに死んどるわけです。
身体は全て細胞でできとるわけですけど、これだって一年もすりゃほぼ全身の細胞は入れ替わっとるわけですよ。
つまり毎年死んどるんです。

家に飾ってる花が枯れるという経験も、電球が切れるという経験も、
身体が変化するという経験も、
全部この在るの中で起こっとるわけですが、
ワタシという観念が、
ワタクシゴトと外のコトってねー。
観念上でわけとるだけなんです。

で、このワタシって言う観念が、
ワタシを守らなきゃならんという思いを生み出し、
その思いが、私が損なわれるかも知れない!っていう恐怖という誤解を生み出し、
それが、
思いは断ち切るべきといったような信念や、
働かざるもの食うべからず!といったような信念を生み出し、
挙げ句の果てには、その信念もワタシと同様のものとなり、
この信念をも損なわれてはいけないものなんだって言う誤解を生み出していくわけです。

するとね、他の人がその信念に沿わないと、ダメなやつ!っていう思いが起こったり、
信念を傷つけて来るようなパターンに対しては敵と見なしたりね。

そうやってワタシという観念に色々な信念を付け加えるたびに、
全てである「在る」に条件が加わっていくわけですね。

ワタシを強化するにはよりよい「信念」を身に着けていかなきゃならん!
となってくるわけです。

ややこしいことに、この「信念」には、
ワタシを手放さなければならない!

みたいな矛盾した「信念」も加わっていったりしてね。
余計にこんがらがっていくわけです。

もちろん、起こってくる自然現象として、
身体の自己防衛本能はちゃんと起こるわけなんです。

これが拡大解釈されていくわけですね。

拡大されればされるほど、皮肉なことに「在る」を狭めていきます。

狭めれば狭めるほど、足りないが増えていくわけですね。

ホントはどこにも足りないものがなく、全てである「在る」に足りないといった観念が加わってくるわけです。

ワタシはいませんの「ワタシ」の部分には、そうやって色々な信念やら観念がすでに積み重なっていますし、その積み重なり方はみんなバラバラなわけです。

なので、みんなが認識している「ワタシ」には色んなパターンがあるんですよね。

そして、信念を損なわれそうな感覚を感じると、この「ワタシはいません」って言葉に反発するような感情が起こったりもするんです。

自分が損なわれる=在るが損なわれる

ってことですからね。

在るがなくなったらすべてを失うことになりますからねー。

というわけで、みんなに通用するパターン化はできないわけなんです。
より真理に近いことを表現している人は誰なんや!
ってね探すのも無意味なんです。

答えは自分の中、つまりは「在る」にしか無いわけですからね。

なので、まずはどんな観念を積み重ねとるのか?っていうのを見てみたらええねーん。
ってね、言ってるわけです。

でね、それが見れるのなら、それって根拠のない恐怖から来てたりしてない?って観察してみたらいいんです。

ぜ~んぶの経験が観察されるようになった!って言う風になると、
「もしかしたら、ワイ、悟った?」
なーんて思うかもしれませんけどね。

それは違って、すでに「在る」はもう全てであって、自分も自我もエゴも全部含まれておるわけでしてね。

足りないものが「悟り」で埋められるわけじゃなくて、単に「足りない」が誤解やったんやんってのが、明らかになるだけで、
最初っから足りないもんなんて無いわけですから、何かができるようになるわけでもないんですよねー。厳密に言えばね。

在る=ワタシという強力な誤解が溶けていったらね。

自然に、在るが在るだけやん!当たり前やん!何を大騒ぎしておったのか・・・。
ってなるわけなんです。

なるっていう誰かがいるわけでもないんですけど。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

ワタシはいませんけど、ワタシは消えません

私はいない リラックス

f:id:takuteto:20170321220157j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

ワタシはいません。ってのは、ま、そりゃその通りなんですけど、
じゃあ、「ワタシ」は消えるのか?というと、消えません。

何かが変わるってことはないんですよねー。

全てである「在る」とか「それ」をね、「ワタシ」だと見なしとっただけですからね。
このことから、あらゆる物語が始まるわけで、
この「在る」に「ワタシ」という観念を加えることによって、
全てである「在る」に妙な分離感が加わるわけですね。

この妙な分離感が、足りない感覚を生み出し、
「在る」の外にも何かがあるはず!
ってな観念を生み出して、その何かを探し求める探求をしとるわけです。

でもこの「在る」しかないわけで、その「在る」に付け加えてた「ワタシ」という誤解が溶けるだけなんですね。

この「在る」は何にも依存してません。

つまりこの「在る」は身体にも依存してませんので、身体がなくなっても「在る」はなくならないわけですね。

なので、生と死も無いわけです。

「在る」そのものが、今もあなたが感じている生命感なわけです。

「ワタシ」という観念の誤解を通さずにそのまんまの「在る」にダイレクトであれば、全ては生命感そのものなんですよねー。

I am that.
とか、
「私は在る」
とか言われとりますけど、
元々は「在る」だけで、そこにワタシという観念を付けて、
そして分離を生み出して、
探求しとって、、、
その探求から色々な観念がさらに付け加えられとって、、、

てねー、
なっとるわけですけど、
何も足りないもんなんてあらへん。
そもそも「ワタシ」は「在る」そのものやん!

ワタシ=在る
ワタシ=それ

やん!ってことなんですよね。

僕ね、
このブログでも、
みんな自分を過小評価しとるねん!
せやから足りないって感じてたりするねん!
ラーメンが好きやけど、あれ食べると太るねん!

とかね、言ってますけど、
まあ、ラーメンの話はおいておいて、

「在る」そのものを「ワタシ」という観念の中に閉じ込めちゃった結果、
全てである「それそのもの」=「在る」=「生命感」を、単なる個人の中に押し込むもんですから、「在る」が過小評価されちゃって、

全てである「それ」からそうやって過小評価された分、足りないが増えていってしまうんですよねー。

で、「ワタシ」は足りないもんだから、そこに恐怖感が生まれて、
足りないっていう観念が膨れ上がるほどに、

もっと頑張らなあかん!
もっと得なければならん!

ってねー。

なってくるわけなんです。

もっと頑張らなあかん!ということは、自分への不信感があるからなんですよねー。

そうやって頑張って得てきた観念がさらなる頑張りを要求したりもするわけでね。

マイホームを買ったからもっと稼いでローンを払って、
老後の安泰のためにもっと稼いで、
よりよい人生を築くために、もっと頑張って、、、

・・・

ちょwwっw!!!!しんどいわっ!!!!

ってなったり、

頑張らなきゃならんのに全然うまくいかんっ!!!!
って悩んでみたりね。

ちなみに、これはいわゆる「悟り」の修行にも現れたりするわけで、

マントラを得たらじゃあ次のもっとスゴイマントラをもらってもっとより良くなろう!
ってなったり、

この修業がおわったら、次のアドバンスコースの腫瘍のステップに進もう!

ってなったりね。

はたまた、
6次元の存在に触れられるようになったので次は、7次元だ!
とかね。

全部、「ワタシ」が生み出す物語なわけなんです。

ちなみに、物語は悪いもんじゃないですのでね。
普通に楽しめばいいんですけど、
それがどうにも欠乏感に満ちていて全然楽しくないんやったらねー。
そのしんどさは、妙な分離感から来とるのかもしれませんでー。
ってことなんですよね。

自分を無条件で認めて、愛でてあげたらいいんです。

もし、それを拒む条件が出てきたとしたらね。

その条件が、どうも自分の恐怖感が生み出した観念かもしれないわけです。

この観念が荷物になってたりしとるんですよね。

その荷物をおろした時、ファッとした開放感、ゆるみを感じるわけなんです。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

シグナルに耳をすます

瞑想

f:id:takuteto:20170310221035j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

心も身体も思考もね。一緒のもんですよねー。

でも僕らって、どうもココロについては、なんとでもコントロールできると思い込んでるフシがあるんですよね。

例えばね、足がピッて切れて血が出たら、アイタっ!ってなりますよね。
足の裏が切れてるのに、気にせずにガンガン歩いたりしないじゃ無いですか。
ちょっとはかばいつつ無理しないように歩きますよねぇ。

めっさ風邪ひいて、フラフラなのに、
その風邪を完全に無視して、普段通りに過ごす。
なんてこともしないですよねぇ。

ま、どうしてもな場合は、薬で抑えてなんとか頑張ることはあるかもしれませんけどね。

でも、心のシグナルは結構ほったらかしにしちゃったりするんですよね。

でも、心も体も同じもんですからね。

身体の場合は、痛みといった感じでシグナルを出します。

で、
心の場合は、なんとなくの違和感のような感じのシグナルなんですよね。

痛みは無視しないくせに、心の違和感は結構無視しちゃったりするんですよね。
でもこのシグナルも身体で言うところの痛みと同じようなもんですからねー。

ほっとくと悪化して行きよるんですわ。

するとそのシグナルの音はドンドン大きくなって行きます。

それでもほっとくと、ついには、
身体の方のシグナルを使ってアピールして来ますからねぇ。

胃が痛くなってきたり、ついには胃に穴を開けたり、
さらには身体が動けなくなったりもします。
ウツ状態みたいな感じですね。

そうなると、もう心は通常の機能がほぼダメダメになっておったりしますからねー。

ピッて切ったから絆創膏貼っておこー。
じゃ済まなくなっております。

心の大手術が必要になったりするんですよね。

でね。
身体のシグナルは身体の不調を感じ取って痛みとかで発信したりしよるんですけど、

心の方のシグナルは何に反応してはっしんしよるんや!と言いますとね。
基本的に、本来の自分をないがしろにしてるとシグナルを発信するっぽいんです。

本来の自分をないがしろってどう言うことかと言いますとね。

自分のこと、ちゃんと好きですか?
ってことなんです。

どこかで自分を認めてない部分があると、その部分に対してシグナルがなるっぽいんです。
これは僕調べですけどね。

あとは、自分に嘘をついてもシグナルはなります。
これも自分を認めずに過小評価してることになりますからねー。

自分を過小評価しとますと、
それが引き金になって恐怖を生み、
外の何かに依存しようとしちゃうんですよね。

なので、何かしらに依存しっぱなしになってても、
シグナルは鳴ったりします。

「ちゃうでー!」
ってね。

たまに、このブログでも、
覚者なんていてませんし、
そう呼ばれてる人の話を鵜呑みにするよりは、
自分の中を見てみてください。

みたいなことを書いたりもしますけど、
別に覚者批判をしてるわけじゃなくてですね。

何かしらに依存して自分をないがしろにしないでねん。
って思うからなんですよねー。

もちろん、僕だって、ラマナさんとか好きなんです。
誠実な感じがしますからね。
会ったことないから知りませんけどねー。

みんな好きなスピリーダーだったり、お話ししてはる人はいると思うんです。

で、そういう人に話を聞きにいったりするのも全然良いと思うんですよ。
楽しくやるのならね。

そこで、自分をないがしろにさえしなけりゃ全然オッケーだと思うんです。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

覚者になったら何かが変わるのだろうか?

あるがまま それのこと 悟りとは

f:id:takuteto:20170321220133j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

子供の頃なんですけど、ほら、お菓子とか食べてるとね、
袋の中に「たべられません」って書いてある乾燥剤みたいなのが入ってるじゃないですか。

あれ、日本語おかしいじゃないですか。

だってね。

食べられますもんねぇ。

食べると体に悪いかもしれませんけど、能力としては食べられますよねぇ。
めっちゃ硬いもんでもないですし、口に入らないくらい大きいもんでもないですし。

というわけで、
その文字を読むたびに、
「たべられるわ!みくびるなよっ!」
なーんてね。

心のなかでつぶやいておった小心者へんくつのタクさんです。

おはようございます。

今思ったんですけど、この話、前にも書いたかなぁ?ま、いいか。

で、冒頭から何の話やねん!
ってことなんですけどね。

なんていうか、ありがちな誤解としてね、
私はいないっていうのを見抜いたら、自分が消えてしまったら、
もう何にもせずに座ってるだけの人。
世捨て人のようになるんじゃなかろうか?

心が満たされて、もう俗世を捨てた人になるんじゃなかろうか?

考えや思考が湧いてこなくなって、アホみたいになるんじゃなかろうか?
堕落してまうんとちゃうやろか?

みたいなね。

そんなイメージを話さはる人もいたりするんですね。

はたまた、
私はまだ「それ」にきづいてなくて、まだまだ私が残ってるんですけど、、、

と言う人もいてはります。

なんていうか、
そういったことを聞かれたときには、
「何かが変わるわけじゃないですよー。すでに「それ」ですしー。」
『私とかなにかしらが消えたりはしませんよー」

ってな感じで返したりするんですけど、この辺をもうちょっと突っ込んで書いてみたいともいます。

例えばね。
ラマナ・マハリシさんっていう偉い人がいはるんですけどね。

あの人は、何かしらの体験の後、無言でずっと座ってはったらしいんです。
お付きの人がごはんとか食べさせたりしたらしいんですけどね。

その後は山にこもって、腰布と杖とコップ以外はなーんにも所有せずにいてはったらしいんですよね。

なので、なんかそんなイメージが先行してるのかもしれませんけど、
あれはたまたま、ラマナさんに起こったように見えるストーリーであってですね。

何かしらのことが起こるとこうなる。なんてことはないわけでしてね。

イエスさんみたいに馬小屋で生まれたら、どこかの丘で説法をすることになるわけでもなく、
インドの王族に生まれたら、仏陀になるわけでもないわけですからねー。

しかも、固定した誰か?というのがそもそもいてないわけですので、
誰かがどうにかなる。なんてことは無いんです。

例えば、私とは心と身体である。
と思ってるとするじゃないですか。

でも、固定された心とか身体なんてもんはないわけなんです。

心も身体も常に変化してる波のような「動き」ですからね。

昔の写真引っ張り出してきたらわかりますよねぇ!
僕だって、10年以上前の写真みたら、
「だれや!このイケメンは!!!!(笑)どうしてこうなったっ!」って思いますもん。(^^;)

ぼくも、自我ちゃん自我ちゃんって言ってますけど、
自我ちゃんと言った何かが有るわけじゃなくて、単なる記憶から来る習慣と思考の動きのことですからねー。

これって、水面の波のようなもんなんです。

何かに気づいたら、その水面に波は起こらなくなるのか?といいますと、
そんなことはないわけでして、起こることは起こるわけです。

心や感情、身体だって、波のように常に動いているわけで、その動きを固定化した観念として見てるだけなんですよね。

なので、この波が収まらないから、この波はまだまだ「水」にはなれていない。
なんてことはないわけでしてねー。

「私はまだ「それ」にきづいてなくて、まだまだ私が残ってるんですけど、、、」
と言った問いにも、

私という働きは波であって、「それ」は水なわけです。
その働きだけに注目してるのが「私」という状態ですので、私は水を知ることは出来ませんが、すでに「それ」であることは明らかなんですね。

で、それが明らかであると、何かを失うわけでもなく、
たんに深刻さがなくなっていくだけなんです。

波は姿を変えていきます。そして、その波に誰かしらの行為者はおらんわけです。

その働きだけに注目してようが、その波が水であることじゃなくなるわけでもないわけです。

また、それが明らかになったからと言って、世捨て人のようになるわけでもなく、何かを失うわけでもなく、自分が消えるわけでもありません。
興味は興味として起こるでしょうし、個性は個性として起こるわけです。
波のようにね。

波は水であることが明らかになるだけで、それは元々、当たり前なわけですからね。
常に形を変えながら、起こっては消えていくわけです。

誰かに明らかになるわけではないですが、個性は個性として起こっとるわけです。
だから、好き嫌いもあれば、腹立つこともてんこ盛りなわけです。
ただ、深刻さがなくなっていくだけです。

単に深刻さがなくなるだけですので、別に大人になっても「おままごと」は出来るわけです。
「できるわっ!みくびるなよ!」ってことですね。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします