Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

悟りで訪れる解放感って??

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「人生は重き荷を背負いて行く道が如し」

っていうのは、家康さんの遺訓の一節なわけですが、

いらん荷物はとっとと捨ててしまって
身軽に行きたいもんですよねぇー。

と、いうわけでおはようございます。
タクさんです。

解放とか言われとる解放感ってね。
なんていうか、荷物を降ろしたときの身軽さに似てるわけです。

あー。そっかー!
荷物を背負わんでもええねんな!
と、荷物を持たない事が許されるっちゅうわけですね。

するとね。
荷物があることも同時に許されるんです。

よくわからんですよねぇ?

これ、
ややこしいんですけど、
荷物は降ろさなければならない。
という事でもないんです。

荷物はあってもいいですし、なくても良いっちゅうわけなんですよねん。

今まで自分を構成する必要不可欠なもの。
切っても切れない自分の一部分だと思っていたのが、
単なる荷物やったんやと知る。
というわけなんです。

でもって、この荷物は実態のない幻想のようなもんやったんやーん。
ってことが明らかになるわけなんです。

で、幻想やと見抜かれることによって、
荷物は重さを失うわけなんですよねー。

で、重さを失った荷物は荷物じゃなくなるわけでして、
あってもなくても良いこととなります。

 

今までね、
カルマを解放すべし!
とか、
思考から離れるべし!
とか、
インナーチャイルドを癒すべし!
とかねー。

色々と教えてもらったりしてね。

いつの間にか
荷物は幻想なんやから降ろすべしとなってしまったりするパターンもあるかもしれませんけどね。

降ろすというか、単に見抜かれるだけでよかったわけなんです。
で、その見抜きは、荷物を降ろした時に訪れるというよりは、
荷物があっても良いよねーと許される時に見抜かれるっていう感じなんですよねん。

すると、不思議なことに荷物が降ろされるわけなんです。

あって良いよ!となると降ろされるんですね。

どないやねん!
天邪鬼か!

って言いたくなりますけど。。。
荷物が荷物じゃなくなるんですよね。

荷物って思い込みとか、思考とか、解消できないカルマとか、、、。
そこが重さになってたんじゃなかったんですよねー。
そこには重さはなかったんです。

そういったいろんなものがあることは許されぬ!
というこの「許さぬ!」の部分。

実はそこが重みになっとったんです。

つまり荷物はあっても良いし、なくても良い。
どっちでも完璧やんってことが、単に見抜かれるんです。

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非二元の先生と生徒や悟りの師匠と弟子っていう関係性はナンセンスやねん!

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兼好法師という人の随筆で、徒然草という古典読み物がございます。

その随筆の中で有名なのが
「仁和寺にある法師」というお話なんですよねん。

有名な話ですので、詳細はおいておいて、
かいつまんで内容を説明するとすると、
仁和寺にというお寺のおしょさんが、
かの有名な石清水八幡宮にお参りに行った!と自慢しとったけど、
実は行ったのはその八幡宮じゃなくて、そのお宮さんがある山の麓の
付属のお宮さんやった。
あそこのおしょさん、アホやなぁ〜。。。。
やっぱ、どんなことでも、教えてくれる先生っちゅうのはいたほうがええですなー。
みたいな話なんですけどね。

ま、仁和寺とかそういうお寺のおしょさんは、今で言うところの超エリートやったんでしょうねぇ。
で、それを兼好法師っちゅうおっさんがクサしてる。みたいな話なんやと思います。

ま、いずれにせよ、この話にあるようにどんなことにも先生に教えてもらうのがいっちゃん近道や。って言う話なんですけどねー。

英会話にしろ、ギターにしろ、独学よりは先生についたほうが楽ですもんね。
先生の知識を吸収するっちゅうことでね。

かくいう僕もね。
クラシックギターはかれこれ5年くらい先生について練習してるんですけど、上達はイマイチです。。。
ま、この原因は普段全然練習してへんから。ってことで、先生のせいじゃないんですけどねん。

ま、この先生と生徒という関係性ですけど、
先生は身につけるべき何かを提供し、生徒が受け取る。
ちゅうね。
そんな関係なんやと思うんです。

でも、
非二元とか悟りとかいう、こういった話については、
この関係性が全然適さないんですよねー。
というよりは、この関係性がめっちゃ邪魔にさえなるんとちゃうん?
って思うんです。

 

なんで適さへんのん?
といいますと、

まず、
こういった話についてはね。
先生は差し出すべき何かを持ってないからなんです。

でね、生徒さんにしたら、何かを受け取ろうとしちゃうと、
全然違う方向性になってしまう。

っていうね。
そういうジレンマがあるんです。

なので、この話については、
何かを得ようとすることを諦めてしまわんとどうにもならんのですよねー。

で、いくら先生がそういったとしても、
先生と生徒という関係性がすでに、与えてくれる偉い人と受け取る生徒。
っていうね。
大前提がすでに出来上がってしもてますのでねー。

その大前提がもう、めっちゃ邪魔になるんですよねー。

生徒さんが真面目であればあるほどね。
何かを得ようと頑張っちゃうのでねー。

そーゆーことじゃないんです。

つまり、何かしらの能力なんていらんわけでしてね。

でもって、悟った人というのもおらんのです。

金魚鉢のなかに数匹の金魚がいたとしてね。
そのうちの特別な一匹だけが、金魚鉢の中の水を独り占めできるか?
といいますと、そんなんありえないじゃないですか。
だって、水は金魚のものではないんですからねぇ。
だからといって、この水は金魚と密接に関係しておるわけでもありまして、、、。

うん。
変な例えでわかりにくいことは百も承知ですが、
まあ、この話もこんな感じのことなんです。

いくら金魚ががんばろうが、水を自分のものにできないのと似とるんです。

うーん。
例えは、海の中の魚にしといたほうが良かったかなぁ?
ま、いいか。

まあ、そう言うわけですのでね。
どの先生がより悟ってるか?といったこともありませんでして、
あなたも先生も同じだけ、最初から悟っておるわけでございます。

なんか、差があるという思いが幻想やというわけです。

すごそうな坊主頭のおしょさんも同じなんです。
なので、生徒でいる。弟子でいる間は、誤解が続くことになるんですよねー。

あ、これは別に先生が金取るのはあかんとかそう言う話じゃないですからね。

時間を割いてお金をもらうのも自由ですのでね。誰かが文句を言うことでもないですし、
それが嫌やったらスルーしときゃええ話ですので。

うまい飯屋だーと思ったら行けばいいですし、ここマズイなーと思ったら行かなきゃいいだけの話ですのでねー。

なんなもなさというこの話は、分離された自分というまな板の上に持って来て、
何にもなさを振る舞う。みたいな話やなくて、

何にもなさという自由の中で、
湧き上がってくるワクワクに自由に乗っかったらええねんで、
遠慮することもなく、気兼ねすることもなく、っていうことですのでねー。

なので、そういったイベントに行って、
先生から何かを与えてもらおう、コツを会得しようというんじゃなくて、
言ってはる話に対して、
何か、自分の中でファッとかポッとか反応する部分があるとするなら、
先生はほったらかしといて、自分の中のファッを見てみればええねん。
っていうことですねん。

話を「教え」として捉えるんじゃなくて、
自分で確かめてみるそのヒント、案内板くらいに捉えとったらいいんじゃないかな?
って思います。

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正負の法則から抜け出せなーい。

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なーんもない中で何かに光をあてると、その光のぶんだけ影ができますねん。

光が強ければ、強いほど、影も濃くなるっちゅうわけですねー。
正を作るともれなく負もついてくる!
っちゅうわけです。
こういうのを「正負の法則」なんて言われてたりしますよね。

なんもないひと繋がりの絶対性の中でなかで、
分離という観念も同じようなもんで、その観念に対しての執着が強けりゃ強いほどその影も濃くなる。
つまり、分離の感覚が強くなるっちゅうわけですな。

また、
良いことばかりに光をあてると、悪いことという影も濃くなります。

つまり、良いことだけに包まれたーいってなると、やな事がすんごく気になったりするっちゅうわけですね。

逆に不安は嫌だーとそっちばっかり気にすると、新しいことにチャレンジしづらくなったり、
人の評価を気にしすぎると何も話せなくなったりってねー。

そういう風になったりするもんなんです。
分離させて片方だけつかむことって不可能なんですよねー。
だって、元々は一個ですからねん。

せやから、完璧を求めれば求めるほど、不完全さが色濃くなったりする訳でございます。

なので、分離の中で完璧を目指そうとしても、
延々とぐるぐるしちゃうっちゅうわけです。

このぐるぐるに必死になればなるほどこだわりも色濃くなってきて、
こだわりが強いほど不自由になってくるという感じなんですよねー。

でもって、
掴み取ろうとすればするほど、得られるものが少なくなるっちゅうね。
そんな感じなわけです。

 

でね。
実際には、執着が強いから何かを失ってるのか?
と言いますと、実はなーんにも失ってなくて、
単にイメージの中だけで掴んだ!つもりになってるだけだったりもするんですよねー。

空気を掴もうとしてる感じに似てるかもしれません。

必死に空気中の空気を掴もうとするわけですが、
必死になればなるほど疲れる。。。
って感じですね。

空気を掴み損なったとしても、空気は逃げる訳ではないのでね。

空気を失った事があるのか?というと最初からもう全部あるわけなんです。

十分に満ちている空気の中で、この程度の空気だと将来心配だ!
もっとかき集めておかなきゃならん!って思ってたりするわけです。

足りない!って思っとるんですよねん。
足りないなんてことはあるわけないんですが、
その中で足りないというイメージの中で、足りない感覚を感じとるんですね。

もーう。
なんでそんな一人相撲をせなあかんのよ。
最初っからしっかり人間っちゅうもんを作っといてよ!
と文句言いたくもなるですが、
ま、しゃあないんですよ。

人は高度なフィクションを作り上げる事ができるという能力があらかじめ備わっておるんです。
本能的なもんですので、自然現象とも言えます。

このフィクションがリアリティを帯びて、そのリアリティの中に捉えられとっただけというわけでございます。

足りないという思いは分離の観念ゆえに起っとるわけでして、
この観念は作り上げられたフィクションだったわけでございましてね。
このフィクションをホンマやで!と信じているこの信念が、フィクションを観念にしておるわけですねー。

このリアリティが単なるエネルギー的なイメージでしかなかったと見抜かれますと、

足りないもんなんてあらへんのんやんか。もぅ〜。。。
ってなるんです。

まるで夢から覚める感じと言われてたりするのは、
この「もぅ〜。」って感じなんですよねん。

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リアリティをまだ求めているのにリアリティのなさを受け入れようとすると空虚になる。

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リアリティ感っていうのが、いわゆる幻想のようなもんなんですけどね。
見かけの自分?というやつは、
その、リアリティに何かしらの価値といいますか、意義を感じてたりするんですよね。

なぜなら、ホントのことこそ価値があり、ウソには価値なし。
と思っているからです。

 

でね、
価値があるものこそが自身を守りより良くする。
という思いの設定みたいなもんがあるんですよね。

そういった信念がありますので、価値ある本物を求めるわけです。
価値ある本物こそがリアルであり、リアリティな訳です。

でね。
このリアリティに価値を感じているという感覚ね。

これが、自我ちゃんの妄想のようなもんなんですけどね。
それを掴み取ったままで、何にもなさを知ってしまう。
みたいなことがあったりするんですよねー。

うおっ!
マジで「それ」とは何にもなさや!
と、いう体験です。
一瞥体験とか見性体験とか言われとるやつです。

実はこれ、体験ではなくて、
単に思い込みという判断が一瞬だけ落ちただけなんですけどねー。
自我ちゃんにとっては、
今まで判断の中だけで生きてきたつもりでいたけど、
そうじゃなかったことの発見だったりするわけです。

でも、やっぱり自我ちゃんというクセは残っておりまして、
やはりどこかでリアリティーの感覚。本物への価値観は捨てられずにいるんです。

そういう時に何にもなさを知ってしまうと、
なんとなく空虚な感覚に陥るパターンがあったりするんです。

そうなると、本物の悟りの状態をより手に入れようとしたりしてハマっちゃったり、自分は悟ったんだ!みたいな観念にハマっちゃったりするパターンもあるっぽいんですよねん。

ま、自分は悟ったという誤解については今回はおいといて、
空虚さについてなんですけど、

この空虚さは、リアリティへの価値観の大きさだというわけです。
どういうことかと言いますと、価値観が大きいとその分、空虚さも大きいということですね。

で、この価値観こそが、単なるイメージにすぎないというわけなんです。

なのでねー。
一瞬だけ垣間見たそれを追い求めるんやなくて、自分が持ってる幻想の価値観の方を見てあげたら良いんですよねー。

どこかで本物???の価値観にこだわっていないか???
という部分ですね。

垣間見たそれを追い求めちゃうと、どうも悟りの理論に走っちゃう場合もありますのでね。

何かをつかもうとする癖がありながら、悟りの理論をつかもうとしても、
結局追いかけっこのように、より本物、より深い知識への終わらない探求にハマっちゃったりもするわけです。

こういうのって、理論じゃないですしね。

理論は観念という世界の中だけで通用するゲームの設定みたいなもんですので、、、、。
ゲームの外では理論は当てはまらんのです。

独自のおままごとルールは、そのおままごとの中でしか通用しないのと同じでね。

そういう時も、より良い理論を追い求めるというよりは、追い求めようとする自分の欲求の方を見てあげたら良いと思うんです。

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至福とは究極の平凡さ。

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それ。
悟り。
空(くう)。
根源。
至福。
神。

とまあ、色々な表現がされている「それそのもの」な訳ですが、
僕は大体は「それ」とか「それそのもの」って言ってたりします。

ま、こいつの入り口って、実は究極の平凡ですのでね。
自分という観念にとっては、
退屈きわまりない、なんでもないものなんです。

究極な平凡ですので、
名前がつくような特別さが一切ないんですよねー。

なので「それ」なわけです。

 

えー!
「それ」ってもっと至福やと思ってたんですけどー。

至福っていうのは、なんかこう、あたたか〜い何かで包み込んでくれるもんと違いますのん?
ワタシ、そう聞いて育ったんですけど?

だから、「それ」とは至福である。ってゆーてはった偉いおっちゃんの話を聞いて、
こうやって至福を探してますねんけど。

「それ」そのものが、究極のただの平凡さだとしたら、全然至福やないや無いですか!

ってねー。
思ったりするかもしれませんし、
この辺の大きな誤解もあるのかもしれませんねー。

いやね。
至福なんですよ。確かに。

ただ、
なんで至福なのかと言いますと、至福を遮る何かがないからです。
至福とは何もなさやったんですね。
信じがたい話ではありますが。。。

僕らが望む幸せの正体も実は何もなさやったっていうね。
そして、この何もなさであるということが、
受け入れ難くさせてる原因にもなってたりしてたわけです。

でもって、究極の平凡が「それ」であるからこそ、
特別にならんかっても良かったんやん!
何者かにならんでもいいんやん!
っていうね。
安心があるわけなんですけどね。

カシコじゃなくても良くて、アホで良かったわけなんです。

ただね。カシコでも別に良いんですよ。
どっちでも良いんです。

ずいぶん昔なんですけどね。
何かのきっかけで、とある起業系のビジネスセミナーに参加したことがあったんです。
その講師のおっさんが変な人でねー。
「成功するには、低学歴のやつじゃなきゃダメだ!」
「高学歴だったり、大企業に勤めとるやつはダメだ!起業なんかせずにそのままでいなさい!」
ま、一理あるとは思うんですけど、参加者に聞いていくんです。
あんた学歴は?
とか言って、、、
「◯◯(有名)大学です。。。」
『あー!有名大学だね。ダメだそれ!成功しないわ!』

あんたは?
「高卒です」
『素晴らしい!あんた成功するわ!』

何じゃそれ???
って思いながら聞いてたんですけど、
あるグループの中ではカシコなのに、別のグループにいくとこうもカシコじゃない扱いされちゃうのね〜。
なんてね。
思いながら、鼻をほじっておったんですが、、、。

ま、いずれにせよ、カシコだろうがアホだろうがどっちでも良いってことなんですよねん。
だってあるのは、究極な平凡である「それ」ですので。

何にもなさの中で湧いてくるワクワクを表現しとりゃ良いんです。
止めなくても良いし、あえて誇張せずともいいんですけどね。
勝手にちゃんと起こってくれますんで。

いやぁー。寝てたいってのが起こってくるっていうのなら、寝てりゃいいんです。
金儲けが楽しい!ワクワクする!
っていうのであれば、楽しんでがっつり儲けてやりゃいいんです。

誰がやるわけでもありません。

起こったことに勝手に「わしがやった!」っていうのを後付けしとるだけですのでね。

あるのは、命の表現として起こっていることだけやったんです。
誰のものでもなくね。
この表現に判断が加わると、いろいろな解釈が生まれる訳ですが、
そういった解釈を置いておくと、あるのはこの表現だけなんですね。

その表現がワクワクなわけでして、このワクワクが至福と表現されとる訳です。

究極な平凡こそが、判断の加わらない至福やったという訳ですね。

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自分のワガママも聞いてあげてねん

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自分がやりたいこととか、自分の望みとかをね。
なんか、自分のワガママなんじゃなかろうか?
ってねー。
思っちゃったりして、
そのワガママを通すには、何かを犠牲にしなきゃいけないのではないか?

みたいなね。

でも、その犠牲はちょっとイヤなのでやっぱり前に進めん。

てな思いって心当たりあったりしませんか?

 

この犠牲っちゅうのが人の評価だったり、
不安だったり、色々あると思うんですけど、、、。

ま、まずは自分のワガママの権利をね。

思いっきり認めてやったら良いと思うんです。

どんなワガママかは色々かも知れませんけど、
それって、今のあなたに必要だから出てきとるわけですからね。

もしかしたら、何かに疲れて休みたいのかも知れないし、
何かしらの大きな勘違いがあるのかも知れない。
妙な競争がイヤなのかも知れないし、
クセ付いた習慣がもう古くなってるのかも知れませんしね。

このワガママはちゃんと認められて話を聞いてもらう権利がありますし、
表現されるために出てきとるわけですのでね。

それは自分のワガママや!ゆーて抑えこもうとはせずに、
まずはそのまんま表現させてあげたら良いと思うんですよね。

いろんな観念が絡まりあって、自分のワクワクがなんなのかもよくわからん。
ってな場合も、自分のワガママに耳を傾けてあげると、何かが解けて
見えてきてくれるかも知れませんのでねー。

で、そのワガママちゃんをね、ちゃーんと居させてあげることを認めてあげて、
それでも、周りからそのワガママは許されん!
みたいな抵抗があったとしたらね。

ま、それもそれで、しゃーないわな。
とその抵抗も単に居させてあげると良いと思うんです。

あとは、もう自由にね。
ワクワクに従ったらええわけです。

抵抗が人の場合とかだったりしてもね。
その人の顔色を伺う必要も全然ないわけですのでね。

うんうん。
あなたが抵抗する気持ちわかるぅー。
とか言いながら、淡々とワクワクを表現する。
みたいなね。

抵抗が不安といったような場合もね。
ウンウン。
その不安。わかるぅー。
って聞いてあげつつ、淡々と自分のワクワクに従う。

っていうね。

抵抗の中に真実があるわけでもありませんので、
この辺は気楽に自由に表現すればええんとちゃうかな?
と思うんです。

ただ、ワガママが何かに対する抵抗だった場合もありますので、
一概には言えない部分もあったりするんですけどねー。

まずは、見てあげて、それがワクワクからくるものなのか?
何かに対する単なる抵抗なのか?
抵抗だったなら、ま、それはおいておいて、
ごめーん。今ちょっと自分のワクワクの件で忙しいので、相手できへんわぁ〜。
てな感じで、ワクワクの方を見てあげたら良いと思うんですよねー。

そのワクワクが、単にゲームがしたいなら、それもバッチリオッケーですし、
サボりたいねん。やったら、罪悪感はほっておいてサボったったらええわけです。

妙にロングスパンで考えるとややこしくなりますのでね。
今、この瞬間だけワクワクをしとったらええと思うんですよね。

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あなたは、祝福されておる。いついかなる時も!

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まずは嘘でも良いから、
自分は完全に祝福されていて、とてつもなく幸福であり、元気に充ち満ちて、溢れ出てきていて、無限大の価値があって、今もその無限の価値ある希望あふれる何かが起ころうとしている。

っていうね。
そういう設定にしてしもたら良いんじゃないかしらん。
って思います。

 

そうすると、
もしかしたら、

いやいや、
全然そんなことはないよ。

だって、
膝は痛いし、
収入はこんだけしかないし、
頭はハゲかけとるし、
顔はイケメンじゃないし、
メタボだし、
仕事で失敗したし、
くびになってしもうたし、
世界では悲惨な人がまだまだいるし、
干ばつで野菜は全滅だし、
昨日のドラマの録画を忘れてしもたし、、、。

と、
そりゃーもう、
そうじゃない理由がワラワラと出てくるかも知れません。

出そうとすればナンボでもそうじゃない理由を出せそうですが、
そういうのが出てきたら、それらは一旦その辺にポイッて置いておいて、
問題についても、今は一旦置いておいて、

で、
また、
嘘でも良いから、

自分は完全に祝福されていて、とてつもなく幸福であり、元気に充ち満ちて、溢れ出てきていて、無限大の価値があって、今もその無限の価値ある希望あふれる何かが起ころうとしている。

という設定にしてみる。

イヤイヤイヤ、
だって嘘だと意味がないし、
無限の価値がある何かが起こるなら、
こんな事が起こってくれなきゃダメだし、
それどころか、今はこんなに問題に包まれとるし、
昨日のドラマの録画を忘れてしもてるし、
ニンテンドースイッチはなかなか売ってないし、、、。

って出てくるかもしれません。

それも、今は一旦置いておいて、、、

自分は完全に祝福されていて、とてつもなく幸福であり、元気に充ち満ちて、溢れ出てきていて、無限大の価値があって、今もその無限の価値ある希望あふれる何かが起ころうとしている。

ということにしておいてみる。

でも、気分的にそうじゃない感じがするし、

その気分についても、今は一旦置いておいてみる。

でもやっぱり自分には何かが足りない気がして、、、

と思ったなら、
その自分も一旦置いておいてみる。

ちなみに、これは、
そうしておくとそういう状況が引き寄せられる。
みたいな事が言いたいんじゃないんです。
引き寄せじゃありません。

そもそも何かが何かに引き寄せられるっていうのも、
後付けの概念でしかなく、
あるのは、ダイレクトなそれだけですのでねん。

そして、
そういった言い訳をぜーんぶ一旦置いてみると、、、。

ほほん?
もしかして、単に頭の中で言い訳してただけ???

何か言い訳しなきゃいけない気になっていただけ???

掴み取らなきゃならぬ!と思っていただけ???

あ、わかったかも!!

っていう気づきが起きてくるかもしれません。

そういった一切の気づきも、一旦置いておくと、、、。

あ!気づきもわかった!も言い訳???

誰かに言い訳しなきゃいけない訳でもなく、
掴み取る必要すらなく。
何者かになる必要すらなく、
ただ、置いておいたらいいだけなん?

最初っからある無限のそれ。

言い訳の世界が当たり前だと思っていたけど、
この「それ」こそが当たり前やったんやん。

と、単なる見抜きが、何にもなさに溶け込むんです。

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