Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

イノチの躍動と神秘

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

昔ってねー。きっと今よりも不思議なことが多かった気がするんですよねー。
太陽が登ってくること自体も不思議ですし、雨が降ることすら不思議ですもんね!
いつ雨が来るかわからないし、たまに地震とかいって地面が揺れるんですもんね!
もうビックリですよ!
大きな嵐と共に海が荒れたり、かと思えば、春の陽気の中、海は静かーに波打ち際を小さな音で、タプんタプんと歌ったり。

平坦かと思えば、ぐわっと地面が盛り上がり大きな山を形成し、そこから滝が轟々と流れていたりしてね。

もう世界って神秘と不思議の王国みたいにかんじられますもんね。

そして、小さな虫から大きなゾウまで!
いろんな生き物が闊歩し、大地に根を張った木々たちは太陽にむかって枝を伸ばす!

外を歩いてるとそんなのばっかりですもんね!昔は自然も多いし、今のように人工物にあふれてもいないでしょうからねー。

昔の人はそんな神秘と共に生活してたんだろうなーなんておもうと、八百万の神(やおよろずのかみ)を信じ畏れるのもわかるような気がします。

でも、現代だとねー。
地球は太陽の周りを回転しながら回っているから太陽が昇るわけじゃなく地球の方が回ってるんだー!
だとか、
虫の生態はこうなっていて、動物の生態はこうなっていて、虫や動物はこのように分類されて、、、といろんなことがわかっちゃってますからねー。

ま、わかっているというか、わかったことにしているという感じなんですが、ともかくそういうことになってますからねー。

なんだか、この世界もわかっていることのようにみえちゃってどうにも不思議さがなくなってしまったかのような感じもするんですよねー。
これだと、どうにもつまらないですよね。

 

・ソレはとても切なく愛おしい

すべてはこの生の躍動です。ダイナミックでもありそれでいて精妙でとても静寂でもあるんです。
この「コレ」とか「ソレ」ってやつですが、皆さんいろんな感じ方をするんだと思うんですが、僕としては切なく愛おしい感じですかねー。

そして「ソレ」は自由でもあります。

普通僕らが考える自由って、あらゆることが思い通りになることが自由って感じがするじゃないですか。
でも、それだとまだ思いに縛られてるんですよね。

思い通りにしたいということは、その思いに縛られてることになりますからねー。

でもホントの自由は、そんな思いからも自由なんです。
そもそも、僕らはどんなものにも縛られていないんですが、思考は全てを分離して整理し、整理された物を組み合わせてストーリーを紡ぐという働きですので、思考の中には自由はないんですよね。
分け目のないすべては、仮想の境界線で分離され比較されることによって、常に足りない自分という幻想を作ってしまうんです。

だから、思い通りになったとて、それって全然自由じゃないんです。
むしろ、あらゆることって思い通りにはならないんですが、もし思い通りになったのだとしたら、きっと僕らは退屈でつまらない世界に閉じ込められてしまうんだろうなーって思います。

・イノチの躍動と神秘

「ソレ」はまさしく、切なくも愛おしいイノチの躍動です。
それはとっても神秘的です。
誰かが何をするでもなく、誰かが意図を持っているでもなく、
だからといって、全てが偶然の産物ではなく、完全に計算し尽くされた連携をしているんです。
この神秘に辿り着くために、誰かがどこかに行かなければならない!なーんてことはありません。
だから、あなたが何かをどうにかしたらその神秘にたどり着けると言った話じゃないんです。

だって、そもそも僕らって生きてるじゃないですか?
つまりいついかなる時も、このイノチのエネルギーにさらされているわけです。
さらされているというよりは、もうこのエネルギーそのものですからね。

分離という幻想によってまるで「自分」は命のエネルギーから離れた場所にいるかのように、そしてこの命をうまくコントロールする司令塔かのように振る舞っていたりしますが、それはただの夢なんです。

この夢はとても魅力的でありどうしても意識が向いちゃうもんですが、見ることを今だけやめてみれば、もうココに残るのはこのイノチの躍動そのものなんです。

 

 

 

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