Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

体験の後にふと現れる虚無感について

はじめに

はいどーもー!
タクさんです。

いわゆる一瞥体験やそのような体験があった方の中に、
目的を見失った感覚になってしまう。
なんて方がおられるんですよね。

僕もよくそういったご相談をいただくことがありますし、僕自身も目的を見失ったような感覚になって、
「なんだかなぁ〜・・・」
って気分になったことがあるんです。

そんなときって、体験はしたものの次はどうしたらいいのだろうか?
という気分になるんですけどね。
同時に、「誰もなにもしていない」ということも体験を通して知っちゃっていますので、行き先も目的もないからな〜。
ってなっちゃってしまって、ちょっとどうしたら良いのか分からなくなっちゃったりするんですよね。

人によっては焦ったりすることもあるかもしれません。

でも別にそこで焦る必要なんてないんですよね〜。

というわけで、今日はそんな一瞥なりなんなりの体験によって目的やゴールを見失ったような感覚になってしまうんだけど、どうしたらいいのー!
ってなことをテーマに書いてみたいと思います。

 

・思考ちゃんのシステム

目的を設定し、そこに向かって行動する。
これは思考ちゃんの典型的なシステムの一つです。
だから、目的を作りそこに向かうということは、思考ちゃんの夢の世界の中では至極当たり前の概念なんです。

なので、ここでいわゆる一瞥の体験などで垣間見た「目的もなければ行為者もいない」といった概念が体験を通して入ってくることで、思考が混乱しちゃうんですよね〜。

そして、この混乱が「目的を見失った」という感覚として感じられるんです。

この感覚はいわゆる虚無感と言っても良いかもしれません。
この虚無感が現れるのは、まだ「思考は思考である」という気付きが定着していないからです。
言い換えると、いわゆる思考グセ、思考の夢に入り込んでしまうクセがまだ残っているということなんです。

・持っておきたい思い

ここでちょっとややこしいのは、「私はいない」ことも「行為者はいない」ことも「思考は思考である」ということも体験を通して知っているということなんです。

この体験を通して知った知識って真実のように感じるじゃないですか。
そこが事をややこしくしているんですよね。

もうこの体験は無いんです。とうに過ぎ去ったものなんですよね。
そしてその知識もまた思考の一部になってしまっているんです。

特に体験を待ち焦がれていた場合なんかは、この体験で得た知識に固執しちゃったりしますからね〜。
そうなるとまた、思考なのにそれが真実だ!って信じちゃったりして強く握りしめちゃったりするんですよね〜。

思考を手放したと思っていても、実は強く握りしめているんです。

でもね。
もうそんな体験も、その体験で得た知識も実体のないモノですからね〜。
サクッと捨てちゃえば良いんです。そもそも、実体がないから捨てることすらできない。
もう無いものなんですよね。

・なんでもない今が体現する命

まあ、そんなわけですので、別に目的を見失ったような感覚を感じたとしても焦る必要はありません。
ただ、そういう思考がイメージとして現れているだけのことなんです。

「へぇ〜。そういう思いが出てきてるんだね〜」

ってね。
雲の形を見るかのように眺めてやれば良いんです。そのうちその雲は形を変えて消えていくものですからね。

思考ちゃんだけが、
「目的がないとどこにも進めなーい!」って言ってるだけです。
そもそも、誰もどこにも行ってません。

なんでもない今が、命を体現しているんです。
そこに一切のルールは存在してないんです。

 

 

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