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非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

一瞥体験あるある

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【はじめに】

ほーい
おばようございます。
タクさんです。

なんかね。
こういう話。いわゆる非二元とか悟りの話をしてる人って、なんかそういう体験、いわゆる一瞥体験とか?
そういう体験があって、その体験に基づいた知識を話している。
みたいなねー。
ちょっとそんな誤解があるんじゃないかなーって思ったりすることがあるんですよね。

ま、そういう側面もあるっちゃあるんですが、致命的に違うのは、
体験で何かを知り、その知識が何か幸せをもたらしてくれる。
というところなんですよねー。

もちろん、深刻さが減ったりはするわけですがそれは知識によるものじゃなくて、これを知識でなんとかしようとすると、的を外しちゃいますし、

そもそも、これを体験として捉えちゃうことで、的を外してしまっているんです。
この話って体験を通して得た知識。ということとはちょっと違うんです。
もちろん、体験を通して得た知識というフェーズもあるっちゃあるんですが、それだと生悟りであり、まだちょっと的外れなんです。

 

【原罪】

キリスト教なんかで、原罪という言葉があるじゃないですか。
これはアダムとイブが犯した罪が全人類に及んでいて、
人はその罪を背負って生まれてくる。

みたいなね。
そんな説明がなされていますが、
アダムとイブが犯したのは知識の実を食べたことでしょ?

これって、人は知識という能力を得たということであり、
この能力はとっても便利なんですけど、
すべてを知識というフィルターを通してみてしまうので、
目の前の真実を歪めてしまうんです。

だから、どうしても的外れなものの見方をしちゃうよねー。

という意味なんだと、僕は勝手に思っております。

もともと罪という言葉の意味は、ここでも何度か書いておりますが、
不法行為をやってしまったという意味ではなく、
「的外れ」という意味なんです。
つまりは、本来の姿にないということなんですね。

お釈迦さんも、正しくものをみなさいよーって言ってたらしいですが、
この正しくというのも、同じく知識というフィルターを通さずに「あるがまま」にみましょうねー。
本来の姿でありましょうねー。
ということなんだと思うんです。知らんけど。

【一瞥体験あるある】

ま、そんなわけで、いわゆる一瞥体験だとか、悟り体験だとか、目覚めの体験だとか、見性体験だとかね。
色々と呼び名はありますが、これって体験にしちゃうことでもう的外れなんですよね。
なぜなら、体験とはもうすでに知識のフィルターだからなんです。

その体験の中に何かしらの答えがある。ということじゃないんですよね。

そもそも、問いもなければ答えもないんです。

あるがままには、もう問いも答えも入り込む余地がないんですよね。
この余地こそが迷いの入り口でもあるわけです。

皆さんの中にも、いわゆる一瞥体験という体験をされた方もおられると思います。
そして、その体験がスルスルーって消え去り、元の木阿弥に戻ったような。
そんな感覚になった方もおられるでしょう。

最初は「やったー!」って思うんですけどね。
あれ?なにが「やったー!」なんだっけ??

ってなっちゃうんですよね。
もちろん、体験を通して、こういう非二元的な話のわからなかったことがわかっちゃったりもするんですけどね。

でも「あれれ?とはいえ何にも楽にならないじゃん?」
ってなったりするんですよねー。

これって、いわゆる一瞥体験あるあるなんです。

【ワタシは何も得られない】

ま、そんなわけで体験になった時点でもう的を外しているわけなんですね。

また、この体験がスルスルーって手元から消え去っちゃうパターンっていうのもあって、
それが、
「私はこの体験で何を得たのだろう??この体験で掴んだ意味はなんなのだろう?」
って考えちゃうパターンなんです。

これを考えちゃうと、
「あ!わたしは何も得ていない!」
というところに行きついちゃうんですよね。

得ていない!得るものはない!ということを知るわけですから、それで間違いないわけですが、長い修行とか勉強とかを重ねて、やっと「得た!」と思ってしまうんですよね。
体験として捉えちゃうと。

いわゆる先生と呼ばれてる人の中でも、「わたしは何も得ていない!」ことを知りつつ、それを隠して、わたしはこういう体験をした稀有な人間だ!って演出している人もいるかもしれませんね。

でも、正直に、そして正しく見ると、
「わたしは何も得ていない!」に行き着くんです。

これは一周回って元に戻ってくるということなんですよね。
僕らはこの元を忘れて、思考と幻想の世界を元だと錯覚しているんです。
ここで、意味を求めると、一周回った後にまたプラス半周まわっちゃって思考と幻想の世界に戻ってきちゃうんです。そして途端にわからなくなったりするんですよね。

思考と幻想の世界では、自分は特別でありたいもんです。
だから、得たと思いたいわけですが、体験を得ちゃうことで、
確かにいろいろとわかった感じにはなるんですが、その奥で自分は何も得ていないことも知ってるんですよね。
それが、新たな苦になったりするんです。

 

takuteto.hatenablog.com

 

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