Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【悟り】私がいないがわからん

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はい。
おはようございやすっ!
タクさんでございやすっ!

結構よくいただく質問で、
「私がいない」というのがわからんっ!
ってお話をよくいただきます。

だって、いるやんっ!
って話ですもんねー。

この私がないと、なんにも始まりませんもんねぇ。

ぎゅーっと腕をつねって、痛いのは自分だけで、この痛みは共有されてませんもんねぇ。
だったら、この痛みこそ「自分」が存在する証明じゃないかー!
デカルトさんかて、考えるゆえに私がおるー!って言ってはるやないかー!

ってねー。

まー、私は存在する!という証拠はいくらでも出てくると思うんです。

そして、今、こうやって記事を読んでいるわけで、
これを読んでいるのは誰でもない「私」であるはずですもんね。

この辺を疑問に思う気持ちはよーくわかります。

というわけで、今日は
「私がいないがわからん」
について書いてみたいと思います。

 

ま、これややこしくしているのは、
私ではないものを「私」と呼んでいるからなんですよね。

私と呼んでいるもの。
これって実は、毎回違うものだったりするんです。

時と場合によって、都合よくいろんなものを「私」だとしています。
ですが、一貫して感じているのは、在るという感覚なんです。

この在るという感覚は、とても精妙な感覚なので、
他のことをやっている間は、そのことが優先されてかき消されてしまいます。

でも常にこの在るという感覚はどこにもいかず、常にいま、ここに在るんです。

在るという感覚と書いていますが、実はこれは感覚ですらありません。
感覚以前のものです。

僕らは何かを掴み取るには、その何かを対象化します。
対象化して物事を掴み取る時に、主体と客体に分けるんです。

そして、この主体にあたるものを「私」としているんです。

厳密には、主体として当てはめられた概念に「私感覚」をプラスして、
「私」という観念を作り上げています。

なので、この「私感覚」がない。
「私はいない」と言われても混乱するわけなんですねー。

「私は誰か?私は何か?」を問い続けると、
主体として当てはめられた概念は私ではないことが確かめられます。

主体として当てはめられた概念。
つまり私だと思っていたものは主体は、全て対象になり得るんです。

対象であるということは、つまり主体ではないということなんです。

例えば、身体や五感の感覚。
これらは全て対象として僕らは気づいているんです。

ですが、あらゆる主体が私ではないとしても、「私感覚」は残ります。

でもこの感覚もまた、「私」ではありません。
そして、「感覚」でもないんです。
「私」と「感覚」というのもまた、後付けの観念なんですよねー。

この「私感覚」から、「私」という観念を取り除いた時、
気づき、純粋な意識だけが残ります。

この純粋な意識、気づきは、個別には存在しておらず、全てとして在ります。
あらゆる対象も気づきとは離れておらず、気づきとは別個に存在していないんですよね。

そんな中、僕らは解釈された世界観を構築し、それを真実だと受け取っているに過ぎないんです。
ただ、この解釈された世界観は、あくまでもイメージであり、このイメージは常に働かせないと維持できないものなんです。

でもこの根強い感覚が、僕らにイメージを働かせ、世界を構築し続けるのと同時に、
より正しい世界を探し続けている。
っていうことなんです。

この根強いクセづけは、クセをクセとして見抜かれるほどに、弱まりますが、
機能としてはしっかりと働き続けるんです。

 

 

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