Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分という観念を作ってしまう理由

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はじめに

はい。
どうもおはようございます。
今日も読みにきてくださいましてありがとうございます!
初めてきてくださった方もありがとうございます。

このブログはどこから読んでも大丈夫ですので、
どうぞお気軽にお越しくださいませ!

さてさて。
「私はいない」というメッセージは時にいろんな誤解を産んじゃったりするんですよねー。

そっか!
私がいないんだったら、この私が感じている悩みは無いんだ!
だから大丈夫なんだ!
みたいなねー。
これも一つの誤解ですし、

私はいないはずなのに、まだ、私という感覚が残っている!
これはどうすれば解けるんだろう?

という思い。
これもまた、誤解なんです。

先日、Twitterの方にも、

私という感覚が、この自分(身体?)だと思ってしまうのは何故?
刷り込みなら、それを解きたい。

といった質問をいただきました。

と、いうわけで、
今日はこの辺のことをテーマにかいてみたいと思いまっす!

よろしくっ!

 

主体と客体

思考という働きは、基本的にストーリーを作り上げます。
そしてそのストーリーを頭の中で連呼するんです。
このストーリーには、やはり物語の設定が必要となるんです。
そうしないとストーリーというものは先に進みませんからね。
そして、ストーリーには当然、主人公が必要です。
主体ですね。そして、主体ができると必然的に客体もできるんです。

これは、コインのどちらかを表としたならば、裏も一緒にできちゃう。
というのと一緒ですね。

元々は、表も裏もないんですよ。ただ、どちらかを表と呼んだ途端、裏が自動的にできてしまう。
ということです。
もちろん、イメージの中だけでね。

主体は一番身近なものにくっつく

さて、主体というのは、そのストーリーによってコロコロと変わります。
だから、いつも身体が自分になっているということはありません。
一番、近く感じるものを主体においたり、
もしくは、対象をみた時点で、それに合うものを主体に選ぶ場合もあります。

例えば、指を怪我した時、その指は身体であるにもかかわらず対象になっています。
胃が痛い時は、胃が対象に、頭が痛い時は頭が対象になっているんです。
そのときの主体は体を管理する者という、よくわからん存在が主体になっています。

なので、身体が常に主体だとは限らないんですよね。

海外の人と話している時は、日本という概念が主体になっていたりしますし、
信条や考え方が主体になる場合もよくあります。

車に乗っている時なんかは、この車自体が主体になっていますので、
誰かに車をコーンと蹴られたら、まるで自分が蹴られたかのように怒りがこみ上げてくる!
なーんてことも起こるんです。

イメージの中に距離はない

ちなみに、主体と客体では、どうしても主体の方が近く感じ、客体の方が遠く感じますが、実際に距離はありません。
みんな等しくイメージです。
また、イメージに真実も嘘もありません。
イメージは、ただただ、イメージなんですねー。
ただ、ストーリーを作る上で、主体と客体に分けているだけなんです。

また、これは刷り込みなのだろうか?であれば、それを取らなきゃならない!
という思いもね。
自分から悪い部分を排除しなきゃいけないという思いからきておりますので、

自分から「自分」という刷り込みを排除しなきゃならない!
ってやったとしても、それはできませんよね。

その思いが起こってる時点で、自分を作っておりますのでね。

ただし、どうしても何かを自分と混同してしまう。

例えば、消化器を自分だと思ってしまう!みたいなことがあるのだとしたら、それは刷り込みかもしれませんが・・・。

ま、これもまた、クセのようなものなんです。

また、思考がストーリーを作るのは別に悪いことじゃありません。
それはそういう働きとして、普通に起こってることなんです。

だから、
「へー、そういうふうに思ってるんだね!」
でいいんです。

そうやってみてあげると不思議なことに、ストーリーの中にいる自分を含めたストーリー全体が、客体に変化しちゃうんですよね。

実際には主体も客体もないし距離もないんですが、巻き込まれているストーリーと仮想の距離がおけるんです。

そして、距離ができると、自然と思考に巻き込まれているところから解けていくんです。

 

takuteto.hatenablog.com

 

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