Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ハートってどこやねん!

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はい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん。
ハートから生きてますか?
それとも、思考に囚われておられるでしょうか?

もしかしたら、
「なんやねん!ハートて?どこにあるねん?」
と思ってらっしゃったりしないでしょうか?

ちなみに、僕は、ハートと聞くと、デブでハゲのおっさんを思い出します。

「血、、、血だぁぁぁ!いてえよぉー!」って騒ぎ出すおっさんです。

(※知らない方はすいません。きになる方は、「北斗の拳 ハート様」で検索してくださいませ)

 

まあ、こう言った話ではよくハートでどうのこうの〜。
みたいなね。
表現が出てくるものですし、僕も使ったことがあると思いますが、
今この文章を読んでくださっている女性の方のように、
麗しい女性であればねぇ。
この表現もよく似合うっちゅうもんですが、
僕みたいな、おっさんにはねぇ。

「あーーー。ハートが喜んでルゥゥゥ」
とかねぇ。

残念ながら似合わんのですわ。

ちょっと似合いたい。という願望はあったりするんですけどね。

なので、自分をハートに帰してあげる。とか言われても、
どうもしっくりこなかったりしたんですよねー。
ハゲでデブの怖いおっさんが出てきて。。。

さて、僕らは本来「私」ではないものに、私をくっつけちゃったりします。
そして、くっつけた私を主体とみなし、主体と客体からなくストーリーを紡ぎ出すんですよね。

感情に私がくっついた場合、この感情が私であり、同時に感情を感じているのも私だという、
一見矛盾した感覚を受け入れます。

突き詰めると、感情が主体であり同時に客体になってるやんけっ!
って、突っ込まれそうなものですが、そこはなぜか、ヨシとしているんですよね。

この私は、自分が乗っている車に付け加えられる場合もあれば、
テリトリーに付け加えられる場合もあり、家に付け加えられる場合もあります。

自分の家にでっかいカエルが紛れ込んでいたりしたら、
居ても立っても居られなくなるもんですが、

川辺で見るカエルは
「あら可愛い!」
となったりするわけです。

大概の場合は、身体に私をくっつけていて、同時に体の感覚も観ている私もいるわけです。

でね。
この私はなぜあらゆるものにくっつけられるのかと言いますと、
僕らは心の中で世界を構築し、その心の中の世界を見ているわけなんですよね。

心の世界を膨張させ、大きな世界観を見ているんです。
この心の世界が膨らんでいくスタート地点に、私という感覚があるわけです。
この私感覚が、心の世界を膨張させる起点になっているんですよねー。

そして、心の世界をストーリー化させるために、私感覚をストーリー上の主体に投影させるんです。

でね。
この心の世界が展開されている間ってね。
どこか体の中心点に力が入ってるんですよねー。
うっすらとした緊張感です。

この体の中心点のことを、ハートと表現されてたりするわけです。
でね。
ハートに帰ってくる。私をハートに帰してあげるというのは、
心の世界に代入された私を、心の大元にある私感覚に戻してあげる。
といったことなんです。

ストーリーが展開される起点に戻してあげるって感じですね。

するとね。
あらゆるストーリーは、消え去り、感覚だけが残ります。
そして、この体の中心点に感じていた緊張感が、ストーリーが止むことによりほぐれていくんです。

このほぐれる感覚を、ハートが開くぅー!
といったような表現をされているんだろうなぁー。
っていうのが、僕の見解なんですが、

この収縮した緊張感がほぐれていく時、
私感覚から、私がとれ、全部が残るんです。

感覚としては、私が全体に溶け込むように感じるかもしれません。

そこにリラックスするんです。

このリラックスがこなれてくると、徐々に今までのクセはクセと見抜かれていくんです。

もちろん、残るクセもあるでしょうけど、それはそれで全然オッケーなんですよね。
残るなら残るで、もうそれで完璧なんです。

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