はじめに
はいどうもー!
おはようございます。
タクさんです。
先日アクアリウム東京なるイベントに行ってきました。
どんなイベントかと言いますと、熱帯魚や金魚はもちろん、その他カエルやヘビ、カメやらトカゲやらクモやゴキブリまで!
いろんなペットの直販会みたいなイベントです。
まあ、僕も金魚やカメを飼っているのでどんな感じなんだろう?と行ってみたんですけどねぇ。
ヘビもカエルもトカゲもみんな可愛かったです。
しかもねぇ。
手のひらサイズのゴキブリもいたんですけど、なんかねぇ。
こいつもナウシカの王蟲みたいで不覚にもカッコいい!と思ってしまいました。
まあ僕も、普通の家に出るゴキブリは嫌いなんですよ。
でもペット用のゴキブリはなんかカッコよかったです。
まあ、こんなヘビやカエルや虫たちなんて大体は
「きもちわる〜!」
って思う人も多いんでしょうけどねー。
そんな嫌いな人にとっては悪夢のようなイベントなのかもしれませんね。
そして、それを無理やり好きになろうとしても無理な話です。
同様にね、何をカワイイと思うか?好きになるか?についても誰も決めてないんですよねー。
勝手に、
「あ!可愛い!」ってなったり、
「うわー、きもち悪い!」ってなったりするんです。
誰もそうなろう!として決めてないんですよね。
・不自由の入り口
さて、
「あらゆることを自分で選択し、自分の人生の道を選び進んでいく」
一見コレって自由な気がするじゃないですか。
でもね。
実はこれを自由だとする勘違いが不自由を生み出す始まりなのかもしれないんです。
うそーんっ!って感じですよね。
自分で選択できること。これこそ自由を獲得することだって思いますもんね。
だから、「誰も何も決めてない。」なんて言われると途端に不自由になる気がします。
でもね。
実はこの自分が決めている!という思いが不自由の入り口なんです。
・不幸という幻想の枠
なぜこれが不自由の入り口なんだー!
ってことなんですけどね。
この自分が選択している!という思いは、
ちゃんとした選択をしなければならない!という脅迫じみた思いを生んじゃうんですよね。
そして、正しい選択。ちゃんとした選択をするにはどうしたらいいんだろう?
今の選択は間違っているかもしれない!
という思いに駆られちゃったりするんですよね。
そして、他の人はどうしているんだろう?と気になったり、過去の成功例を探したりしてね。
みんながやってるなら安心かな?と思ったりしてねー。
そもそも、成功している人って「みんながやってるから私もやりました」って言ってる人はあまりみたことがないんですけどね。
にも関わらず「みんなどうしているのか?」が気になったりしちゃうんです。
そして、正しいとか間違いとか、良い悪いへのこだわりによって、今度は「足りない自分」なんて幻想も作ったりしますし、
より良くなろうとするあまり、
「これはこうするべきだ!」
「あれはあるべきではない!」
といったような観念を溜め込み、その観念が増えるに従って、どんどんと自分を不自由にしていくんです。
また、
金持ちになったら幸せになれるらしい!
イケメン・べっぴんさん!だったら幸せになれるらしい!
地位が高かったら、これさえ手に入れば、、、。
と無限に幸せの条件という観念を作り上げちゃいますからねぇ。
変に自分を不幸という枠に閉じ込めちゃったりもするんですよね。
・思うがまま、思い通りに生きる
さて、そんな「自分が選択をしている」よりも
「思うがまま、思い通りに生きる。」
むしろ、こっちのほうが自由な気がしませんか?
そしてね。
実はすでに僕らはそうやってるんです。
すでに思い通りにやってるしなってるんですよ。
えぇ〜!でも私は「金持ちになりたい!」って思ってるけどその通りになってないですよ!
と言いたくなる方もおられるかも知れませんね。
でも、思考って必ずしも言葉の通りじゃないんですよ。
なので実は「金持ちになりたい!」と思っているんじゃなくて、「私はお金がない!金持ちじゃない!」と思っているんです。
そして、これは「そう思ったらそうなる」ということじゃなくて、
「私はお金がない!」と思っている間だけ、金が無いという思いを味わうことになるんです。
そしてその味わいを事実だと錯覚しているんです。
また、観念にとらわれない自分の好みみたいな思いもあるんですが、
「こんなことを思うべきではない」という観念があると、思い同士がぶつかってしまって、思い通りにいかないっていう思いを演出したりもするんです。
こんなやっかいな観念は観念だと見破られることで消えていきます。
そうすると、もっとシンプルな自身の思いってのが出てきやすくなります。
そうなるともう、その思いどおりに生きれば良いんです。
ま、観念が邪魔して思い通りにならない!っていう思いが出てきても、まあそれもそれで良し!なんですけどね。
そしてもっと自由なのは、思いにとらわれないということです。
思いにとらわれるのは思いを事実だと錯綜することでとらわれます。
思考は思考であるというとってもシンプルなことに気づくほどに、思いへの執着は剥がれていきます。
すると「とらわれ」という錯綜も消えていきます。
残るのはシンプルな何でもない今なんです。
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