Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

何も取っておけなくても寂しくないよ!

はじめに

はいどうもー!
おはようございます。
写真を撮る時、笑顔がどうしてもひきつるタクさんです。

みなさんは、満面の笑顔を瞬時に作れるタイプでしょうか?
僕は常に仏頂面で写真に写っているタイプです。

ですので、あまり自分から写真を撮るタイプではないのですが、
このようなブログを書いている関係上、ネコの写真は慢性的に不足しておりますので、
ネコを見つけた時だけは、真っ先に写真を撮っております。

さてさて、そんな写真なんですが、
やっぱり旅行やお出かけ先なんかで、
とても素敵な時間を過ごしていたなら、
写真に残しておきたくなりますよね。
なんかこの素敵空間を全てではないにしろ取っておけるような気がしますもんね〜。

歓喜に包まれたとき、とても嬉しいとき、
なんだかじわっと幸福を感じるときもそうですよね。
できれば、このままの状態でずっとあってほしいし、
この感覚をずっととっておきたいと思うものです。

ですが、あらゆる全てはやってきては去っていくものなんですよね。
なので、僕らはなにも取っておくことができないんです。

 

取っておけなくても寂しくないよ!

「何も取っておくことはできない」と聞くと、なんとも寂しく感じるかもしれません。
なにも取っておけないし、何も持っておけないとなると、なんだか孤独な感じもしますし、世界から取り残されたような気もしますもんね〜。

ですが、ここで感じられる寂しさや孤独感というものは錯覚なんです。
実際のところ、取っておく必要すらないんです。

なぜなら、僕らはすでにソレそのものだからなんです。

ソレそのものの「ソレ」とは全てです。

僕らは全てそのものだというわけです。
だから、なにも取っておく必要すらないんです。

このことを何処かで知っているから、思考ちゃんは何かをとっておきたいと思うのかもしれませんね。
思考によって分離された自分が全てから切り離されたような錯覚を生み、それを埋めるかのように取っておきたいと願うのかもしれません。

ですが、そもそも所有というのも幻想なんです。
僕らは、なにも所有することすらできないんですが、なぜ所有できないのか?というのも、
すでに「ソレそのもの」だからなんですね。

ちょっと強引な例えですが、
自分が自分を所有することなんて不可能ですよね?
そして、自分が自分を所有すること自体が無意味なんです。

そもそも分離が存在していませんので、所有そのものが幻想なんですね〜。

ソレとは至福であり歓喜である。

取っておきたいなぁと思うようなこと。
これはきっと、幸せを感じられるコトだったり、喜びと繋がっているものだったりすると思います。
本当のところはこの幸せや喜びとずっと繋がっていたいなぁ。という願いが取っておきたいという思いの根っこにあると思うんですよね。
ですが、僕らはすでに「ソレそのもの」ですので、その願いはすでにもう叶っているんです。
「ソレ」とは全てなんですが、この全てこそ、至福であり歓喜なんです。

ウッホ〜!と叫びだすようなテンションアゲアゲ!というよりは、
もっとジワッとくるもので、静かで、それでいて力強いって感じですけどね。

そして、「ソレそのもの」に在るための条件も一切ありません。
だから、喜びや幸せにも必要な条件もないんですよね〜。

何かしらの条件が必要だ!と感じるなら、それもまた思考の幻想なんです。

 

 

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