Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

根拠のない幸せ感覚に浸るとき、至福がよみがえる

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【元の気は元気そのもの!】

ほーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさんお元気にお過ごしでしょうかー。

元気って言葉は元の気って書くところがいいですねー。
僕らの本来の元々の気であれば、それが元気!って感じがしますもんねー。

でもね。
ホントそうで、みーんな、なーんにも付け足さなければ、
もうそれで、完璧ですし、完全なんですよね。

ですが、完全や完璧を目指そうとしてしまうと、
途端に完璧ではなくなっちゃうんです。

完璧な人間はいないんですが、
元々は完璧である。
っていうことですね。

言葉にすると、とっても変な感じですね。

 

【完璧な人間はいない】

完璧な人間はいません。
つまり僕らは、みーんな嫌なやつで、そして同時にみーんな良いやつなんです。
なぜ、完璧な人間はいないのかー?
ってことなんですけどね。
完璧であるという定義に実体がないからなんですよね。

つまり定義はいくらでも作り出されてしまえるんです。
これをクリアすれば良い!
これをクリアできなければ悪い!
ってな感じでねー。

これらの定義はぜーんぶイメージですのでね。
いくらでも加えることができちゃうんです。

となると、それを全部クリアするのって無理なんですよね。

だから、完璧な人間なんていないんです。

【定義とは実在しないモノ】

ですが、この完璧な人間を決める定義ってねー。
まさしくイメージそのものですからね。

妄想のたぐいと一緒なんですよね。
つまりは、完璧になろうとすればするほどに、
定義は増えていくんです。

ま、僕らもねー。
完璧な人間になろう!とまではしないまでも、
そこそこ良くなろうとは思っちゃうじゃないですか。

でもこれもねー。完璧な人間になろう!とするのと同じことでね。
いくらでも、定義が増えていってしまうんですよね。

なぜなら、良くなろうとすればするほどに、良くない所を探しをしちゃうからなんです。

【定義とはおままごとのルールのようなもの】

これらの定義とは、ルールのようなモノです。
どんなに重要そうに見えたとしても、そこに価値の差はありません。
突き詰めると、おままごとのルールと同じなんですよね。
そして、これらの定義を僕らが掴めば掴むほど、
自分は何かが足りない。
という作り話のタネをたくさん持っちゃうということにもなるんですよね。

例えば、今はこの定義の条件を満たしていても、それが満たされなくなると、
自分は足りないの口実にしちゃうんです。

例えば、年収がいくらあれば社会人として合格!
みたいなね。
無意味な定義を握りしめていたとしてね。

その条件を満たしている間は、自分はこの条件においては合格だ!
と思っていても、その後、年収が下がっちゃうと、途端に自分は不合格だ!
自分には足りないものがある!という口実にしちゃう。
といったぐあいですねー。

【つまり、僕らは元々完璧である】

定義とは妄想のようなものです。
そして、この定義を満たすことで完璧を目指そうとしても完璧にはなれませんが、
この定義が妄想なんだ!と気づけば気づくほどに、
満たす定義がなくなってきますので、僕らはこのまんまで完璧なんだ!と知ることになるんです。
そして、この定義が、自分を縛るクサリではなくなり、より楽しく遊ぶための道具に変わっていくんですよね。

【根拠のない幸せ感覚に浸ってみる】

僕らはね。
ついつい、何かしらの根拠を欲しがります。
この根拠が、ここで言っている定義と同義なんですけどね。
これらの定義、すなわち条件の一切を、今だけおいておいて、
なーんの根拠もない、何にもない今に浸ってみることをオススメします。

すると、根拠のない幸せな感覚に包まれるかもしれません。

僕らはもともと至福の存在ですからね。
ただ、生きている。
この感覚とともにある時、至福さが蘇ってきてくれるんです。

これこそが、根拠のない幸せな感覚です。

合間合間の空き時間にでもね。
このなーんにもない幸せさに浸ることで、
「あっ!こっちが本質だったんだっ!」
って気づくかもしれません。

ぼくらは大丈夫なんです!
だって、全てはイノチそのものだからです。

 

takuteto.hatenablog.com

 

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