Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

楽園追放

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

今までにも、楽園追放という物語をテーマに書いたことがあると思うんですが、今日もまた、ふと思いついたので、書いてみたいと思います。

楽園追放とは、アダムとイブが禁断の果実と呼ばれる、善悪の知識の木の実を食べたことによって、楽園を追放されたってお話ですね。

このストーリーには、いろんな人がいろんな解釈をしておりますが、
今日は勝手な独自解釈で書いてみまーす。

ま、お遊びみたいなものなので、お気軽にご覧くださいまし。

 

楽園追放

禁断の果実は、知恵の実と呼ばれていたり、善悪の知識の実と呼ばれていたりします。
人間の始祖とされるアダムとイブはこれを食べることによって、いわゆる知識、分別を手に入れたということですね。

いわゆる知性を手に入れたということです。

まさに、人類というものの登場です。

僕ら人類は知性あってのものです。
ホモサピエンスとは、知恵(サピエンス)を持つ人(ホモ)っていう意味ですからねー。

そして、こう言った「知」を持つことによって、楽園を追放されることとなったんです。
そして、この「知」を持つことが「原罪」となったわけです。

原罪

知を持つということが、「原罪」となるとはどういうことか?
というお話の前にね。
まず、「原罪」についてお話ししますね。

原罪とは、元々の罪。みたいなことですよね。
そしてここで言われている罪というのは、
いわゆる犯罪的なものじゃなくて、
罪の元の意味は「的外れ」ということです。

つまり、僕らは知を持つことで、的外れになってしまったんです。
そして、この的外れになったことが、楽園を追放される要因になったと言うことなんです。

実は僕らは楽園にいる。

僕らは知性を手に入れたつもりが、実はこの知性というものは砂上の楼閣のようなものでしてね。
何にも手に入れていないのに、手に入れた気になっていただけだったんです。

そして、この知を通して世界をみてしまうことによって、
楽園を見逃してしまっているんですよね。

実は、楽園から追放はされていないんですが、
的外れなものの見方をすることによって、楽園を見失ってしまっているんです。

知性によって、的外れなものの見方をしてしまう。

これが、人間の持つ特性なんです。

人は仮想現実を作る能力があるわけですが、
この能力は仮想の現実を真実だと錯覚してしまうクセがあるわけですね。

このクセが「原罪」なんです。

楽園を取り戻せ!

つまり僕らは、このクセによって、
楽園にいながら、全然違う世界を見ているわけですね。

言い換えると、安全安心な部屋の中でホラー映画を見ているようなものです。
そして、この映画のストーリーが思い通りにいかないことに悩んでる。
って感じですかねー。

では、どうしたら楽園に戻れるのか?と言いますと、
僕らが手に入れた「知」を置いておけばいいんです。

知とは、ありとあらゆるものを判別し、それらを分けて整理して解釈して作られる世界観です。

これらはぜーんぶ言葉によってなされます。
つまりはストーリーそのものですね。

このストーリーを真実だと錯覚することが「的外れ」の正体なんです。

ちょっとボタンのかけ違いをしているだけなんですね。

どの解釈が正しいのか?と探求するのではなく、解釈ごと一回置いておくんです。
そしてただ、今ここにある言葉にならない、何者でもない感覚をその感覚のままただ味わっていればいいんです。

それこそが今ココにある全てなんですね〜。
そして、この全てが楽園だと言うわけです。

なぜなら、苦悩はストーリーの中だけにしか無いからなんです。

 

 

takuteto.hatenablog.com