Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

いまココしかないとは?

はじめに

はいどうもぉ〜。
おはようございます。
タクさんです。

カイジという漫画があるんですけどね。
この漫画の名物のひとつに「鉄骨渡り」というのがあるんですよ。

高いところにある鉄骨を渡って向こう側についたらゴールってやつなんですけどね。
でも鉄骨をそのまま渡ってゴールの扉を開いちゃうと気圧差かなんかでドアがバーンと開いて吹き飛ばされちゃうんですよね。

それを避けるために実はその横にガラスの階段があるんです。

落ち着いた心でないと、その透明のガラスの階段には気づけ無い。ということになってましてね。
鉄骨を渡るのに集中してたり、恐怖心を持っていると気づけ無いって言うことなんですね〜。

確かにガラスの階段ならよーく見ればみえますよね。

でも、もし完全な透明の橋があるとしたらこの橋は渡れますでしょうか?

例えば断崖絶壁の崖に差し掛かって、
「ココには透明の橋がありますから大丈夫ですよ〜!」
と言われても、
まあ、まずは渡れないですよね。

僕ならどうするかなぁ〜。
やっぱり恐る恐る手でパンパンと叩きながら渡るか?
もしくは、砂かなんかを巻きながら渡るかな〜?

みなさんの中には
「お!そうなのか!じゃあ渡るわ!」
って軽々と渡れる剛の者はおられますでしょうか?

 

思考を手放す恐怖

ま、この非二元の話もこの透明の橋の話とちょっと似ている部分があるんですよね〜。

アチラ側からだと崖にしかみえなくても、コチラ側から見たら絶対に大丈夫だよ〜って言えるんです。
これは、トリックアートみたいなものなんです。

アッチ側からは断崖絶壁にしかみえませんが、コチラからみたら落ちっこないのは明白なんですよね。

だから歩いてみても大丈夫なんです。
気づいたなら、「なーんだ!そういうことかー!」
ってなもんです。

ではこのトリックアートをまるで本物の崖のように見せているものは何なのか?
といいますと、これが思考なんです。

思考から遠ざかれば、「あ、トリックアートだ!」ってすぐに分かっちゃうんです。
そしてまた、このトリックの仕組みにも気づくんです。

こういう感じになってるから、本物の崖のようにみえてたんだ〜!ってね。

でも僕らは、思考を手放すのが怖いから、
「どうやったらこれがトリックアートだと思えるんですか〜!」
ってなるんです。

答えは、「思考のフィルターが本物のように見せているだけだよ。その思考を手放せばわかるよ〜!」
ということになるんです。

それでもやっぱり僕らは思考を手放すのがとっても怖く感じるんです。

いまココしかないとは?

「いまココしかない。」という言葉もね。
思考で捉えようとするとよくわからんことになってしまいます。

この「いまココ」という言葉はねぇ。
思考を手放したときに感じる素直な感想なんです。

いましかないとは、今以外は何も存在していない。つまり時間は存在しないという気づきです。
そしてココしかないというのも、距離はない。ココ以外の場所はないという気づきなんです。

これが事実なんですよね。
「ちょっとトイレ行ってくるわ〜」といって僕らはトイレに行きますよね。

でも事実としては、勝手に部屋だったココが廊下に変わり、そしてトイレが目の前に現れているんです。
映画のシーンが変わるのと同じなんです。

この現象を、思考の解釈に置き換えて初めて、
「私は、部屋を出て廊下を歩いてトイレに行った」というストーリーが出来上がっているんです。
そして僕らはこのストーリーを事実と誤認しているというわけです。

思考がスッと抜けたとき、距離という思考や過去と未来という思考も抜けるんです。

今まで、距離とか時間って思考だとは思ってもいなかったもんだから、
「うわぁ〜、今ココしかないやん!」
ってな感想が出てくるんですよね〜。

いまココは、考えて答えが出るような問いではなく、ただの感想だったんです。

 

 

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