Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ワラを手放しココに佇む

はじめに

はいよー!
どうもおはようございます。
タクさんです。

いわゆる思考から解放されたイマココに佇んでおりますと、
今までの自分の滑稽さにちょっと笑えちゃったりすることがあるんですけどね。

まあ、この笑いは嘲笑の笑いではなく、カワイイ動物の動きを見て微笑んでしまうようなたぐいの笑いなんですが、この滑稽さを例えるのによく使われるたとえが、浅瀬で必死にもがいている様子です。

足のつく川で、その事に気づかず必死にもがきワラをも掴もうとする様子ですね〜。
ワラはココかしこにあるので、なんとか掴むことはできます。
そして、ワラを掴んで一息つくことはできるんですが、やっぱり掴んでいるのはワラですからねぇ。
すぐにブチッと切れちゃうんです。そうなるとまた必死にもがきながら次のワラを掴まなきゃいけません。
掴んだワラもまたすぐに切れちゃいますので、掴んでるそばから次のワラを探し続けなきゃいけないんですよね。

そして、そんなことを繰り返すうちに、ワラよりももっと頑丈な掴みどころは無いものだろうか?と苦悩するんです。

そうなるともう、掴むものばかりに目が向いちゃって、実は何も掴まなくてもちゃんと立てるということには考えも及ばなくなっちゃうんですよね〜。

 

・知識や思考はワラのようなもの

ここで言うワラとは、知識や思考そして概念等のことです。
僕らは知識や思考を得ることによって、正しい判断基準を手に入れて、
起こってくる様々な場面でより良い判断ができるようになる!って思い込んじゃっているんです。

確かに、過去を振り返っても、正しい判断基準のお陰でうまくいった!っていう経験もあったりしますからね〜。
尚更それを求めちゃうんです。

そして、上手く行かないことがあるのだとすると、それは知識や思考が足りないんだ!
ってついつい思っちゃうんですよね。

そして次から次へと、知識や思考を探し求めるんです。

でもねー。そうやって探し求めていろんな判断基準を得ていくうちにね。
不思議なことに、より良くなるはずが、どんどん不安になっていったりするんですよね〜。

よくよく思い返してみると、そんなものがなかった子供の頃のほうが幸せだったんじゃないだろうか?
なんて感じたりね。

知識や思考の奴隷になったかのようになり、かけがえのない「自分らしさ」もその奥に追い込まれてしまい、そのせいで苦悩しちゃうんです。

・あるがままという救い

でもちゃんと救いはあって、それはワラを掴まなくてもちゃんと立てるよ!
ということなんですよね〜。

つまりは、何も掴まなくても大丈夫だということです。
何も掴まずただ、あるがままにある。
今、呼吸をしているのなら、その呼吸がただ在るだけ。
散歩をしているのなら、その歩いている感覚が在るだけ。

常にあるのはそんなダイレクトな感覚だけなんです。
そしてそれは、いまココにずっと在り続けているんです。

そこにただ、あるがままに在るだけで大丈夫だったんですね〜。

・ダイレクトなイマココ

ただほら、僕らって常に次のワラを探し求めてきたじゃないですか。
だから、あるがままに在るって言われても、じゃあ次はどこに向かえばいいの?
ってね〜。どうしてもクセでそうなっちゃうんですよね。

また、ダイレクトないまココは思考から見るととても退屈かつ危なっかしく見えてしまうんです。
だからついついまた、次のワラを探し求めたくなってしまうんですけどね。

それはまだ、知識や思考への奴隷から抜けきってないからであって、
それも、ただあるがままに在ってみることで抜けてきます。

知識や思考がただのワラであることが明らかになっていってくれるんです。

 

X(twitter)もやっております。
どうかフォローしてやってくだせえ!
メッセージなどで繋がりましょ〜!

https://twitter.com/TakuTakuteto