Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

行為者はいない。つまり思考をしている者もいない。

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

ま、こういった非二元話のキラーワードとして、
「私はいない」ってのがあるんですが、
これって、行為者はいないということでもあるんですよね〜。

僕らは普段無意識にあらゆることには原因と結果があるって思ってるじゃないですか。
別にこれが間違っているわけではないですよ。

思考はそういう考え方をするものですからね。
この働きが間違っているというわけではないんです。

ですが、あくまでもそれは思考の中だけで起こっている解釈なんですよ〜という話なんですよね。

そして、この原因と結果があるという解釈に伴って、何かをしているからには行為者がいるという概念もまた思考の中だけで起こっているんです。

ですがね。
この行為者というのも思考がそう解釈しているだけなんですよね〜。

変な話、思考をしているのもまたそこに行為者がいると思っているもんですからね。

「私が考えている」としているわけです。

ここから発展して、考えるということが起こっているからには、それを行為している「私」もいるはずだ!
っていうね。
有名な「我思う、故に我あり」という言葉もあったりするんですよね。

だからみんな、当たり前に「私」は存在していると思い込んでいるわけです。

 

思考が一番受け入れたくないもの。

思考が一番受け入れたくないのが、行為者はいないということです。
だからどう思考ちゃんを説得しようとしても、
絶対に行為者はいないということを受け入れてはくれないんです。

行為者はいないということを完全に思考ちゃんに理解してもらうことは出来ないんですよね。
なぜなら、行為者という概念は思考ちゃんのストーリー作りにとって核となる部分だからです。
この概念を否定されると思考ちゃんはストーリーを作れませんのでね。
だからなんとかかんとか隙間を見つけては思考ちゃんはストーリーを差し込んでくるんです。

思考ちゃんは、自身の感情も読み取って、その感情にバッチリ合致するストーリーを差し込んできますのでね〜。
僕らはこの思考ちゃんのストーリーについふら〜っと乗っかっちゃうんですよね。

そしてこの思考と自己同一化をしてしまうわけです。

そして、しばらく後に
「あれ、行為者はいないという感覚を掴みかけてたのに、またついつい思考に乗っかってしまっているなぁ。」
って感じたりしてね〜。

そして、この思考に乗っからないために、「私」は「何を」したら良いのか?
って考えちゃうわけですが、こうなるともう完全に思考ちゃんと自己同一化をしてしまっているんですよね。
「私」という行為者が「何を」したら良いのか?って思っちゃってるんですもん。
しかも思考に乗っからないためにそうしようとしているっていうね。
なんとも皮肉なことが起こったりしているわけです。

行為者という概念

行為者という概念は、まさに思考の中だけに存在する概念です。
鬼ごっこの鬼は、鬼ごっこのルールの中にしか無い概念というのと同じようなことなんです。
鬼ごっこをしている間は、この鬼をなくすことは出来ませんよね。
これと同様に、思考の中から行為者を取り去ることは出来ないんです。

思考はただ起こり、そして消えていきます。
その思考の内容に良いも悪いもありません。

思考の内容について、良い・悪いの判断をしているのもこれまた思考なんですよね〜。

また僕らは、次に起こる思考を知ることも出来ませんし、コントロールすることすら出来ないんです。

そもそも「私が」思考をしているわけではありませんからね。

つまりね。
行為者がいないというのは、思考している者もいないということでもあるんです。

起こってくる思考にも、行為者はいないんです。

あなたは、あれこれと起こる思考や感情や体の感覚の奥にでーんと控えている存在なんです。
この存在は何の干渉も受けていないんです。

もちろん、思考や感情には気づいているんですけどね。
ただ気づいているだけなんです。

 

 

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