Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

行為者という幻想からの目覚め

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はい。
おはようございます。
タクさんです。

ぼくらってね。
今何をしているのか?っていうのを
どうしても確かめたがる性質を持ってるんですよねー。

でも、この、今何をしているのか?ってね。
自分ではわかってるつもりでいて、その答えって結構あべこべなんです。

ただ、電車のつり革につかまって、窓越しの景色を見ているのに、
自分は会社に向かっている。と思っていたりするんです。

これ、自分は会社に向かっているというのは、今していることじゃないですよねぇ。
今しているのは、会社に向かっているつもりになりながら、つり革の感触と窓越しの光を感じている。
というのがホントのところなんですよね。

会社に向かっているというのは幻想のようなイメージなんです。

幻想とかイメージとか言っちゃうと、なにやらその思い込みを否定しているように感じるかもしれませんが、
否定や肯定っていうのも思い込みの中だけの概念であり、そこにあまり意味はないんですよねー。

正しくなきゃダメじゃん!
正確じゃないと意味がないじゃん!

っていうこだわりってみなさんお持ちだと思いますが、
このこだわりはイメージの中のストーリーの中だけで必要とされている概念であり、
目の前の真実の前では、ホントも嘘も、否定も肯定も、正解も間違いも必要ないんですよね。

そして、本当も嘘も、否定も肯定も、正解も間違いも必要ないということは、
意味すらも必要がないということにもなるんです。

でもねー。
それを聞いちゃうとやっぱり思考は、
だったら、このこだわりを持たないことが正解なんだ!
っやっちゃうわけです。

しかもややこしいのは、そうやっちゃうのなら、それはそれで良い。
ということなんですよねー。

かなり???ってなって来ておられる方もおられるかもしれませんが、
続けていきたいと思います。

 

この、何が正しいんだろう?
っていうこだわり。

これは、あるルールの中で何かをするのには役に立ちます。
正しさとは、ルールということになりますので、
そのルールを知れば知るほど、ルール内での遊びでは有利になりますからね。

だから、ルールの中で働く思考は、そうやってルールを探り、
何が正しいのか?すなわちルールちゃんとのっとってるのか?
これを探るのは当たり前とも言えます。

なので、ちゃんと思考は思考として働いているということですので、
問題はないんですよね。

思考というのは、分離の概念を使い、主体と客体を作り、ストーリーを作ります。
そして、この主体という部分に「自分」という概念を使うわけです。

なので、自分というのは思考のストーリーの中だけに存在する架空の概念なんですが、
この主体という概念が、ストーリーの中で、自分が思考しているという思い込みを作るわけなんです。
なので、自分が思考し、自分が思考を管理し、感情を管理していると思い込んでいるわけです。

面白いことに、自分というのは、コップや机や椅子と同じように、レッテルなので、
「自分」というのはレッテルとしても使われるんです。

自分がコップを持ち、自分が椅子に座る。という感覚と同様に、
自分が自分を管理するという、ほんとは矛盾することも、自然と受け入れられちゃうんですよね。

思考というのは、「自分」という感覚も含めて起こっている一つの働きです。
この働きに所有者も行為者もいません。
行為者という概念は、主体と客体という捉え方の中で生じる、これまた架空の概念なんです。

心臓は自分が動かしているわけではありませんよね。
これと一緒なんです。

思考もあなたがコントロールしているのではありません。

思考も心臓のように誰かが働かせているわけではないんです。

行為者のいない中でそのような働きがただ起こっているんです。

 

takuteto.hatenablog.com

 

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