Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ババ抜きならぬ「自分抜き」

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はじめに

はい。
おはようございます。
タクさんです。

いやぁ。
それにしても、百人一首ってあるじゃないですか。
坊主めくりをして遊ぶあれです。ちがうか。。。

あれねー。
子供の頃は古臭いイメージでしたけど、
年をとって改めて見返してみると、
なーんていうか、大昔の日本の文化レベルって、
めちゃくちゃ高くないですか??

あの短い語数の中に、風景や心情をいい具合に織り交ぜていて、
そして、天皇から大臣から坊さん、
男性も女性も色んな人が身分の差もなく様々な歌を表現していて。

文化レベルで言うと下手したら今の日本以上なんじゃなかろうか?
って思ったりもします。

僕ら人間は科学の進化とともに、能力はもしかしたら退化してるのかもしれませんね。

僕もケータイやスマホの登場とともに、すっかり電話番号を覚えることができなくなりました。
小学生の頃は、友達の電話番号10個くらいは覚えていたもんですけどね〜。

子供の頃のカード遊びでよくやっていたのは、坊主めくりとあとはババ抜きです。
ただ、ババ抜きって大勢でやると楽しいんですが、二人だともう最初から3枚でやればええんちゃうんか?
ってなっちゃいますよね〜。

ま、そんなババ抜きですが、今日はババ抜きならぬ「自分抜き」について書いてみたいと思います。

 

行為者という信仰

僕らの信念の一つとして、
あらゆることにはその行為者、つまり主体がある。
っていう思い込みがあったりするんですよねー。

なので、私はいない。と聞いても、
でも食べたら味がするじゃん!
痛みもあるじゃん。

二人でご飯を食べて、相手はラーメン、僕はチャーハンを食べたとしたら、
やっぱり私と相手。二通りの経験があるじゃん!

つまり、チャーハンを味わう「私」がいるはずじゃん!

ってな感じでね。
いろんな疑問が湧いてくるわけですが、
これもやっぱり、あらゆることには主体者、行為者がいる。
そして、チャーハンを食べているのは「私」である。
っていうね。
そういう行為者という概念があるからなんですねー。

行為者も主体者も存在しない

こういう事が起こるのは何がそうさせているの?
感情は誰が行っているの??
思考は誰が出しているの??
この世界は誰が作ったの??

ってねー。
こういう疑問は、
行為者がいる。
主体がある。
っていう思い込みから来ている疑問です。

行為者も主体も思考を進める上でだけ必要な概念なわけでしてね。
思考をポーンとほったらかしにしてみると、主体者も行為者もスコーンってなくなるんですよね〜。

つまり、名もなき起こっていることだけが在る。

全てはもうこれだけなんです。

全ては必然

物語やストーリーには主人公がどうしても必要になります。
そして、ストーリーには「誰が何かをして、それがこうなった。」
っていう組み立てをしないと進まないのでね。

頭の中でストーリーを作る上では、主体者は必要になってくるんです。
このストーリーを頭の中で構築するためだけに架空の主体者、行為者という概念が使われているんです。

ただそれはあくまでもストーリーの上でだけの話ですのでね。
このストーリーから、存在しない主体者をスコーンと抜いてやれば、
ストーリーは消滅し、ただ在るだけが残るんです。

なので、迷いや不安が出てきたなら、
そのストーリーの中から、ババ抜きならぬ自分抜きをしてやれば良いんです。

すると、それほど迷いや不安に脅かされなくなるんですよね。
ストーリーがそこで終焉するからなんです。

そして、迷いの中からどちらかを選ぶ者というのもまたおりません。
なので邪魔をしなければ、自然と好きな方を必然的に選択することになるんです。

邪魔をしてしまったなら、それはそれで必然なんですけどね。

そしてそれを誰かが選んだという解釈もまた同時になされるわけです。

ま、そんなわけでして、
迷ったときや不安なときは、
どうしたら良いんだろう?と悩むよりも、

そこから「私」を抜いてやれば良いんです。

そして後は必然にお任せです。

 

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