Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

人生の道を栄光に満ちたものにしよう!

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

よくね。
人生をいわゆる「道」のように例えたりするじゃないですか。

徳川家康さんも、人生とは重い荷を背負い遠い道を行くようなものだ。
って言ってますしね。

ま、この重い荷物っていうのは、実際にはないんですけどね。
でも、日々いろいろと起こることに対して心にプレッシャーを感じるほどに、
重い荷物を背負っているように感じる。
ってことなんですけどね。

さて、そんな道に分かれ道があって、
どちらの道を選べば良いのか?

なんてことを僕らはよく悩んだりします。

人生の岐路ってやつですね。

間違った道を選んでしまったら、その道はもしかしたら崖になっていて、
どんどんと落ちてしまうかもしれない。

みたいなねー。

だから、どちらに進むかについて、とっても慎重になったり、
どちらが正しいのか?と悩んだりするわけです。

でもねぇ。
人生って道じゃないですからね。

それほど苦しんでまで悩む必要は無いんです。

 

人生とは道なのか?

人生は道じゃないの?分かれ道はないの?
ってちょっと不思議に思われるかもしれませんけどね。

そもそも、人生を道に例えるのってあくまで例えじゃないですか。
だから、道じゃないんですよ。

分かれ道なんてものもありませんからね。
こっちを選ぶと崖になっているなんてことはないんです。

結果論としてそう見えるだけなんですね。
これも、勝手に道に例えているからそう見えてるだけなんです。

選択に間違いも正解もない

つまり、どんな選択をしたとしても間違いは無いんです。
ま、正解もないんですけどね。

正解も間違いもないのなら、いうほど選択で迷わなくてもいいんじゃね?
ってことなんです。

ま、もちろんそう聞いたとしても多少は悩むもんですけどね。
でもこの悩みは、本来苦しみではなく、楽しみのようなものなんです。

ほら、金魚なんかを買いに行く時にどのコにしようかな〜?って悩むじゃないですか。
あれって楽しいものですもんね。

金魚の例えがよくわからないなら、イチゴ味にするか?チョコ味にするか?の悩みでもいいですが、それもやっぱり楽しみですもんね。

そして、選択に正解も間違いもないということはですね。
誤った選択をした〜っ!といって自分を責める必要もない!ということですね。

必要のない責め苦を自分に向けることって、百害あって一利なしなんです。

人生の重荷

このねぇ。必要のない責め苦が人生の重荷になっちゃうんですよねー。
ぶっちゃけ、いらない重荷なんですよ。

この重荷のせいで、もうこれ以上重荷を背負いたくないからやっぱり正しい選択をしなければ!
みたいなプレッシャーに取り憑かれちゃうんです。こいつもまた重みになるわけですね。

荷物がないのに重く感じてしまったあげく、さらにはその重さの責任を自分に被せてしまい後悔の念までも感じてしまうってなこともあるわけです。
これって、ちょっともったいないですよね。

そのせいで、前に進むことすら嫌になってしまうってのは、
いもしないオバケを怖がってプルプル震えて前に進めないってのと同じようなことですもんねー。

人生の意義

人生の意義というものがあるのだとしたら、それは良い選択をするということじゃないと思うんですよね。
良い選択なんてわからないじゃないですか。わからないものを意義にしたなら、ずっと迷いがつきまとってしまいますもんねぇ。

ですのでね。
意義にするのであれば、その人生の道を栄光に満ちたものにする!
コレですわ!

でね。
この道を栄光に満ちたものにするのは、どれだけ自己を肯定するかにかかっているんですよ。

だからね。
とにかく自分を肯定しまくってやれば良いんです。
ですが、ここで大事なのは、自己を肯定するのに根拠はいらない!ということです。

根拠なしに肯定することで、今歩んでいる人生の道が栄光の光に満ち溢れるんです。
そうなりますとね。
今までの選択してきた道もまた良い選択になりますし、起こってきたことはすべて感謝の賜物になるんです。

そのための第一歩は根拠なき自己肯定なんです。

 

 

ツイッターもやっております。
どうかフォローしてやってくだせえ!
メッセージなどで繋がりましょ〜!

https://twitter.com/TakuTakuteto