Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

架空の重荷

はじめに

はーい。
どうもおはよーございます。
タクさんです。

人生は重き荷を背負いて
長き道を行くが如し〜。。。

っていうのはね。
家康さんの遺訓の一部なんですが、
まあとはいえね〜。

重たいのってちょっと嫌ですよねぇ〜。
せっかくの人生、そんな重荷はちょっとゴメンだよぉ〜っていうのがきっと大方の意見なんじゃないかな?って思います。

ちなみに、僕らが苦とよんでいるものも、
この重たさなんですよね。

これをなんとか、軽くしたいっていうのが
きっとみんなが望むことなんだと思います。

ちなみにね。

あれこれと起こってくる感覚があるじゃないですか。
これをねぇ。
いちいち検証せずにいると、もう軽くなっちゃうんですよね。

つまり、僕らの重たさというのはこの検証の中にしか無いんです。

 

重荷の実体

変な話ね。
僕らって、この重荷をどうすれば良いのか?
ってね。
考えちゃうじゃないですか。
これも検証なんですよね〜。

そして、検証の中に事実とか真実って無いですよね。

事実というのは説明されるト書きじゃなく、
今、ココでダイレクトに起こっていることですからね〜。

そして、このダイレクトの中に重荷というものは存在していないんです。

だからね。
検証や説明されるト書きにこだわらなきゃ、
もうココに軽さがあるわけです。

ま、逆に言うとね。
軽さしかない中、幻想の重さに僕らは悩んでいるということでもありますね。

無い荷物に重さを感じるのって何?

実際にこの重さってホントに幻想そのものなんですよ。
だって、重さって重たいものを持つことで感じる感覚じゃないですか。

なのに、実際には重たいものなんて無いのに感じてるわけですからね〜。

これはね。
仮想のお荷物をイメージの中で作り上げて、その重さを身体にずっしりと感じているというわけですね。

このイメージが架空の重さを感じ取っているわけなんです。

そして、この実際には存在しないお荷物って、まさに思考によって作られた幻想なんです。
そして、このお荷物って、イコール自分なんです。

つまりね。
自分という幻想。これがそのまんまお荷物であり、
この自分という幻想が強ければ強いほど、このお荷物もまた重たくなるんです。

自分へのこだわり

だからね。
考えを手放そう!思考を置いておこう、というのはね。

自分へのこだわりを捨てるということでもあるんです。

探求の元にあるのも、
自分をどうにかなりたい、っていうね。
自分へのこだわりなんですよね。

このこだわりこそ、
「自分は足りない」という錯覚から来ているわけです。

まーねー。足りない自分を許してあげようっていうのはね、許せる自分になるということじゃないんですよ。
そういった自分へのこだわりをね。
今だけ剥がしてやるコツが、許しなんです

 

 

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