Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

道という幻想

はじめに

はいどうも〜。
おはようございます。
タクさんです。

道(みち)ってね。辶(しんにょう)に首(くび)と書くんですが、
なぜ、首なのかご存知でしょうか??

これねぇ。
今の時代からみると、ちょっと怖い話なんですが、
昔は、人の首って魔除けの効果があるって信じられていたらしいんですよね〜。

なのでね。
無事目的地にたどり着くためのお守りとして人の首を持って歩いたんだそうです。

それで、道(みち)には、首(くび)が使われているそうなんですね〜。

なーんていうか、今の感覚だと、恐ろしく感じるものですが、
昔の感覚だと、人の死はもっと身近にあったのかもしれませんね〜。

だって、病気になっても今のように治せませんもんね。
子供だって、半分はおとなになる前に亡くなったそうですし。

そうなると、逆に人との関係性や、距離感。
そして、今、ココに在るものへの思い入れも強かったかもしれませんね。

さて、そんな道ですが、いわゆる道路以外にもいろんな意味合いで使われますよね。

茶道や華道、剣道に柔道みたいなものもそうですし、
老子のTAOにも「道」という言葉があてられています。

これらは、ちょっとした修業の道といったような、なにか到達すべきものといった感じの雰囲気が込められていたりしますよね。

ぼくらって、やたら人生を道に例えたりしますもんね。
迷ったときは、「分かれ道がやってきた〜!どっちを選んだら良いんだ〜!」

って思い悩んだりしてね。

でもね。
そもそもなんですが、そうやって道を進んでいってどこかに到達する。
っていう概念自体もまた幻想なんですよね〜。

これって、時間という概念がそのような幻想を生じているのかもしれません。

 

時間は一方向に向けて流れてはいない

ではこの時間の概念による幻想というのはどういうものなのか?
と言いますとね。

時間が一定の方向を向いて流れている。
ということ。

それが幻想なんです。

時間は川の流れのように流れてなんていないんです。

この常に一定方向に向けて流れがあるという錯覚が、
僕らのいろんなストーリーを作っているんですよね〜。

だから、迷ったときは、その先にそれぞれ違った何かが待っているようなね。
そんな錯覚を抱いたりもするんです。

ましてや、それが今後の人生の道筋に大きな影響を与えるかもしれない!
なんて思うとね〜。
ますます、迷いは深くなっていきますし、選ぶのさえ怖くなったりするもんです。

でも実際には、どっちを選んだって良いんですよ。
そして、どっちを選んだってな~んも変わらないんです。

今までの人生をストーリーに仕立てることで、ストーリー上では選択によってこうなったかのように見えますけどね。
それもまた、そう見えるだけなんですよね。

あらゆることは、起こっていて、起こっていない

時間は流れているのではなく、そもそもありません。
あらゆる物事は、今、ココで、起こっては消えていっているんです。

そして、起こったとするには何かしらの解釈が必要になりますよね。

でもこの解釈もまた、幻想の一部なんです。

だから、あらゆることは起こっては消えていく。
何が起こっているのか?というと、なんでも無いことが起こっている。

これは、起こっていて、起こっていないということでもある。

というね。
なんか変な表現になっているんです。

また、モノとして存在しているものはありません。
全ては起こりなんです。

その起こりは常に今ココで起こっているんです。
また、起こりは単独では起こりませんので、あらゆることはすべて連携されているんです。

というわけで、ちょっとややこしくなってきましたので今日はこの辺にしておきます。

ではでは、また〜♪

 

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