Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

切なさと愛おしさと。

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

過去に戻れるならいつが良い?
なんて話、たまーにしたりしますよねー。

みなさんは、戻れるとしたら、いつに戻りたいですか?

僕はねぇ。
戻ってまた帰ってくるのなら良いんですが、戻ってやり直しというのはしたくはないんですよ〜。
だって、ダルいじゃないですか。またやり直しでしょ?
しかも、答えを知ってるなんてなんかめっちゃ退屈だし、面白くないと思うんですよねー。

でもね。
見てみたいという気持ちはとってもあります。

あの時代のあの時の街並み。

これってもう絶対に見れないものですもんねー。
だから、もし戻れるとしたなら、小学生時代のあの街並みをもう一回見てみたいなーって思います。

当時は、学校への通学路も、学校の廊下も、休み時間の運動場も、
なんかいつもの日常だし、当時の街並みもなんの思い入れもなく、
フツーの日常であり見飽きた風景だったんですけどね。

今見てみるときっと当時住んでたあの家や、自分の部屋、
あの時の街並みに、通学路に流れる小川。
校庭から聞こえてくる音。

これら全てが愛おしく、それでいて切なく感じるんだろうなーって思います。

当時の街の匂いなんかも、今と全然違うと思うんですよね。
きっともっと臭かったんじゃないか?って思います。

若い頃に住んでたボロアパートなんかも、見てみたい気がしますねー。
当時はこんなボロ家、いつか絶対に抜け出してやるっ!なーんて思ってましたけどね。
今見ると、これもきっと愛おしく切なく感じるんでしょうねー。

だって、思い出すだけでちょっと切ないし愛おしいですもん。

 

・全ては取っておくことができないからこそ愛おしい。

この愛おしくも切ないという感覚。
これはきっと、絶対に取っておくことはできない。
ということからきているんでしょうねー。

いつも通りでいつでも再現可能!だとしたらこんな愛おしさや切なさは感じませんもんね。

だからこそ、当時の日常は今から振り返ると何とも代え難い愛おしさと切なさを感じるのかもしれません。

きっと、改めて当時の様子を見ることができたのだとしたら、
当時よりももっといろんなものをみて取れるんだと思います。

今は廃墟になってしまった商店街も、活気が満ちる商店街をみて、
この活気がかけがえのない活気だということも感じるだろうし、
これは今だけの宝物であることも、改めて見ることで分かりますもんね。

当時の当たり前は、全然当たり前ではなく、あらゆるものはぜーんぶ消えていくものですからねー。

・今だけの奇跡

そして、今目の前に広がる世界。
これもね。
取っておくことができない今だけの奇跡なんですよね。

もちろん、思考ちゃんはそうは判断してくれず、
「いつも通りのいつもの日常」
「どうってことのない風景」
と判断しちゃいますからねー。

ですが、きっと今の目の前の日常も、時が過ぎたら切なく愛おしいものだったと感じられると思うんです。
それは、思考ちゃんの「いつも通り」という思考で邪魔をされませんからね。

今、目の前のなんてことのない世界もまた奇跡に満ちた切なく愛おしいワンシーンなんです。

思考の判断なんて置いておいて、今を味わう時、この愛おしさが蘇ってくれます。

どんな時も世界は愛おしく、それでいて切ないんですよね。

 

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