【はじめに】
はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
まーぼくらって、いつも何やら選択をしてるじゃないですか。
そして選択の度に、
「これで正しいのかな?間違ってないのかな?
ってなことを気にしてたりするんですよね〜。
ま、
種明かしをしちゃうと、そもそも選択すらしてないし、
100歩譲って選択したとしても、その選択に正しいも間違いも無いわけですね。
正しいと間違いはないわけですから、もうどんな選択もそれが必然ということになるわけですね〜。
にもかかわらず、
あの選択は間違いだった。
もっといい選択があったはず。
ってねー。
そういう思いに苛まれたりするわけですが、
それってそもそも無いものなんです。
つまりあらゆる選択は必然であり、選択されなかったものというものはそもそも無いということですからね。
無いものを有ることにして悩んでるってことになるわけです。
これもまた、
偉大で素敵な独り相撲の一幕なのかもしれませんね。
【選択は演出】
選択っていうのは、いわゆる思考ちゃんの演出なんです。
そして、迷いも思考ちゃんの演出によるものなんですねー。
思考ちゃんの演出。これは自我ちゃんであり、エゴです。
このエゴが選択という概念のもとに正しさと間違いという幻想を見せ、
迷いを演出するするわけです。
ぼくらはなぜこの演出に執着してしまうのか?というと、
思考こそ「私」であると錯覚しているからなんですよね。
じゃあ、この錯覚をどう振り切ったらいいのか?
ってね。
僕らはつい考えちゃうわけなんです。
【マーラの誘惑】
お釈迦さんの物語の中で、瞑想中に悪魔(マーラ)と戦うシーンがあるんです。
瞑想中にお釈迦さんに対して、いろいろと誘惑をしかけるんです。
なんでも、欲望を掻き立てたり、恐怖を掻き立てたりといろいろとするわけですが、
最後にお釈迦さんは、
「自我よ、お前は妄想だ。 存在などしない。」
といって退け悟りを開いたんだそうです。
ちなみに、このマーラの誘惑は5人の美しい娘によって為された。
って言われておりますけどね。
これ、
言い方を変えると、お釈迦さん、もしかしたら、、、、
瞑想中に、ちょっとエロいことを考えてた。
ということなんじゃ、、、。
って思っちゃったりして、、、。
もしくは、お釈迦さんは悟りを開いたときのことを誰かから聞かれて、
「いやー、瞑想してたら、めっちゃエロいことを考えちゃったんだけど、それに打ち勝つことができたとき、悟りを開けたんだ〜!」
ってな感じでね。
ちょっとウケ狙いで話したことがあまりウケなくてこういう話に変わっちゃったんだったりして、、、。
まあ、それは置いておいて、
最後に、自我は妄想であるということが看破されて、これらは消え去る。
っていうお話なんですけどね。
この話を聞くと、なにやら自我ちゃんという妄想を消し去らねばならぬ!
ってな風に、ついつい思っちゃいますけどね。
妄想は最初っから存在してませんからね。
これを消し去ろうとすることは、妄想を真実だとみなしていることにもなるわけなんです。
だから、妄想と戦う必要はないんです。
【妄想との戦い方】
この妄想するという能力は僕らに与えられたギフトでもあるわけですからね〜。
わーお!ステキ〜!
ってな感じで受け入れてあげたら良いんですよね。
飛ばない豚はただの豚だ!
ってなことで、
妄想を受け入れちゃったなら、もう妄想に迷わされなくてすむんです。
この妄想をなんとか変えようとしたり、コントロールしようとしたりすることで、妄想を真に受けてしまうわけなんですねー。