Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

在るという実在

はじめに

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさんはよく夢を見る方ですか?
僕はまー、ふつうかなー。
でも、最近はあまり夢を見ていない気がします。

そんな夢なんですが、たまに夢の中で夢だと気づくことってありますよねぇ。
また、同じ設定の夢なんてのもよく見たりします。
そういうときにも、
「あー、またこの設定かぁ」
って思ったりするんですよね。

僕がよく見る設定は、自分が空を飛べるという設定なんですが、
空を飛ぶのがちょっとむずかしいんですよ。

基本、上にしか飛べなくて、意識を集中してぐんぐん上に登っていく感じなんです。
その後は、ゆっくりと滑空していかなきゃいけないんですが、
これねー。
街中だと結構難しいんです。
何が難しいって、電線に引っ掛かりそうになるんですよ。

だから街移動では、結構気を使って飛ばなきゃならないんですねー。

でね。
面白いことに、その夢を見ている間も、
「あー、この設定変えようかなぁ〜。でも簡単に変えちゃうとこの夢のリアリティが損なわれるしなぁ・・・」
とか考えている自分もいるんですよね。

夢を夢と気づいていても、それでも尚リアリティにこだわってるっていうね。

 

夢は作り出されている

夢の中でリアリティにこだわっているということは、
この夢の世界のありとあらゆることを作り出しているんですよねー。

登場人物のセリフや行為、電線のある街のセットなども全部作り出しているんです。

でね。
面白いことに、「あーそうやって作り出してるんだ〜。」
っていうことをみてたりもするんですよね。

もうこうなってくるとね。

作り出しているのが自分なのか?
作り出しているところを見ているのが自分なのか?

っていうのもよくわからんことになってるんです。

つまるところ、ただ作り出している。そしてそれに気づいている。
これだけなんです。

そこに自分をくっつけようとしている事自体もまた、
作り出している夢の一部なんですね〜。

現実も夢と構造は一緒

現実もまさに夢と同じです。
自我ちゃんという意識の中で、作り出されたストーリーが展開していて、
そのストーリーの中心に自分という登場人物がいるんです。

そして、それらすべてをみていますし、気づいているんですね〜。

「え?じゃあ、それをみて気づいているのは誰なの?」
という思いも起こってくるかもしれませんが、
その思いの奥に入っていくと、ちゃんとその思いにただ気づいていることを発見できるんです。

そこに誰かはいないんですね。
誰もいないからと言って、それは無ではありません。

主体でも客体でもない実在がちゃんと在るんです。

夢が覚めたとしても、別に何も失われないのと同様に、
自我意識から目覚めたとしても、別に何も失われないんです。

残るのは、在るという実在なんです。

 

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