Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

観るということと、悟りについて。

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恐怖とか不安とか怒りとか、そういうことが起こっとるのであれば、それって思考にまきこまれとるっちゅうことなんですよねー。

なので、ちょっと落ち着いて、その巻き込まれてる様を観てみると良いと思うんです。

実際のところは、そういった思考が起こっとるだけであって、別にその思考に何かしらのチカラがあるわけじゃないんですよね〜。

よくある映画とスクリーンの例えと一緒です。

スクリーンに何が写ってようが、スクリーンは実際のところ何の影響もうけず変わらないわけです。

こういうのが、リアリティをもって起こるのは、自分という観念をくっつけてるからなんです。
この恐怖や不安も自分に起こってるんだ!と思ってるわけでしてね。
その「自分に」という部分を採用しているとそれにリアリティがくっつくわけです。

 

これは寝てる間に見る夢でも一緒です。

その夢が現実的に見えるのは、その夢のイメージに自分という観念をくっつけている間は夢に現実感が伴います。

夢を見てる途中で、
「あ!これは夢なんちゃうん?」
と気づいちゃうと、その現実感、リアリティーが徐々に薄れていきますよね。

現実のリアリティも全く一緒の構造になってまして、
体の感覚や現実に起こっていることに、自分という観念をくっつけてる間だけ、
それがリアリティーとして襲ってくるように見えてるんです。

せやのでね〜。
この起こってる不安や恐怖をどうにかしようとする以前に、
まずは、この起こってる様子をね。

特に変えようとかせずに観てみたら良いんですよね〜。

このブログでも、そのまんまにしておいたらええんですよ!

ってゆーてますけど、変えようとするこの衝動がね。
もうすでに思考に巻き込まれた結果としての衝動ですのでね。

それやと、巻き込まれてる様を観れないんですよね。

でね。
ちょっとここで勘違いされるパターンがよくあるんですけど、
そうやって起こってることを観れている状態。

それが悟りなんか?と言いますとそういうことやなくてですね。

単に観れていると、そこに自分は居てませんので楽ですよってだけの話であって、
その状態をキープしなきゃならないとかそんなん関係ないんですよね。

悟りっていうか、「それ」そのものっていうのは、
その観ている自分すらもう居てませんので、
なんていうか巻き込まれててもそれでええやん。

みたいな感じなんです。

起こることは起こるでしょうし、起こっているように見えてても実際何も起こってないですし、
状態をキープしなきゃならんこともないやん!

っていう気付きであって、最初っからどこにも行ってないし、行かなくてもいいし、行けるはずもないやーん。
ってな明らかさでしかないんですよね。

でも、巻き込まれてしんどい場合は、単に観てみると楽ですよ〜。
悟りとか「それ」とかとは関係ないですがねー。
って言うことなんです。

なので、あまり観ることにこだわる必要はないんですが、巻き込まれとるのもちょっとしんどいで!って感じになってるのなら、

多分、思い通りにしたい。
こうでありたい。みたいなコンセプトがあって、そのコンセプトに沿わない状態に逆らってる。
みたいなことになってるんやと思うんですよね。

そんな様子をまるっと、変えようとせずに観てみるのも、たまには良いかもしれません。

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