Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「あるがまま」は「あるがまま」にしておいてあげる。

はじめに

あいよっ!
おはようございます。
今日はいつにもまして腰が痛いタクさんです。

みなさんの腰痛ライフがいかがでしょうか?

さてさて。
ビートルズもあらゆる歌手も、
愛について語ってるじゃないですか。

愛とはなんぞや!ってね。

みーんな、愛について色々と聞いているし、知っているにも関わらず、
あれこれと争いが絶えないのも、これまたヒトのサガなのかもしれませんねー。

でもね。
憎しみや嫉妬やイライラする感覚や、不安や恐怖。
これらもね。
そこに乗っかってこそ効果を発揮するんです。
これは思考ストーリーなんですよね。
そして、このストーリーは乗っかって初めて効果を発揮するということなんです。

ということはですよ。
乗っからなきゃ、その効果は発揮されないんですよ。

この、乗っからないっていうのが、ちょっとよくわからない。
って感じる方ももしかしたらおられるかもしれません。

というわけで、今日は乗っからないということについて書いてみたいと思います。

 

ストーリーは乗っからなきゃ始まらない

あらゆる思考のストーリーって、乗っからなきゃ始まらないんですよね。
乗っかって初めてリアル感を感じてそのストーリーは展開し出すんです。

つまり、ストーリーっていうのは乗っかっている間だけ、そのストーリーのリアル感が担保されるということなんです。

思考のストーリーはリアル演出をしてきますのでね。
このリアル感に僕らはついついほだされて乗っかっちゃうんです。
そこに乗っからなきゃ良いわけなんですが、
乗っからないってどういうことなのよ!って感じちゃったりしますよね。

でもこれ、
思考を追い出すとか、思考をしないとかそういうことじゃないんです。

考えないようにするってね。
簡単に言われたりしますけど、考えないってちょっと難しいですもんね。
考えないようにしよう!って考えてるじゃん!
ってなりますもんね。

思考に気づいていることに気づく

これ、ちょっと逆説的に聞こえるかもしれませんが、考えないようにするには、考えてもいいよ〜って受け入れるのがコツなんです。

でもその前に、
あらゆる思考に気づいている必要があるんです。

厳密に言うと、気づいているから乗っかれてるわけですので、すでに気づいていることに気づくって感じなんですけどね。

僕らが思考のストーリーに巻き込まれているときっていうのは、この思考を真実に置き換えちゃっているんです。
そうなってしまうと、その思考がいくら荒唐無稽であっても、
誰かに、その荒唐無稽さを指摘されたとしても、自分の中では真実になっちゃうんですよね。

その思考ストーリーが、妙な陰謀論だったり、はたまた妙なファンタジースピリチュアルストーリーのようなものであっても、
そのストーリーに乗っかってしまったなら、それは真実のように感じてしまうんです。

新興宗教でも一部のスピリチュアルストーリーでも常に新しいストーリーを提供し続けたりするのは、そういう側面があったりするというわけなんですね〜。
つねに乗っかれる興味深そうなストーリーを提供し続けているわけです。

これらもその思考ストーリーに乗っからなきゃ、思考のストーリーを真実に置き換えなくても済むんです。

そして、このストーリーに乗っからないためには、ただ気づいていればいいということなんですね〜。

気づきという言葉の誤解

でもね。
この気づいているという言葉が、ちょっと一癖ありましてね。
気づいていようとすると、つい僕らは、いろいろと分析しようとしてしまったりするんです。
そうやって分析すればするほど、逆にストーリーに乗っかってしまったりするんですよね〜。

気づいているというのは、分析したり探求したりすることとは違うんです。

ただ気づいているだけですのでね。
それは、思考は思考である。イメージはイメージである。っていうね。
そのアタリマエのことに気づいているということなんです。

私が気づいているのではありません。
「私」という観念も思考のストーリーの中だけにしか存在しない観念ですのでね。
そこにもただ気づいているということなんです。

あるがままにしておく

とはいえね。
「私」というのも観念であり、思考のストーリーの中だけにしか無い。
なんて聞いちゃうと、それを確かめたくなっちゃいますし、確かめるために分析しようとしたり探求しようとしたりするじゃないですか。

そうなると、思考のストーリーにまんまと乗っかっちゃったりしますのでね。
それは、ただ気づくということとはかけ離れてしまうんです。

だからね。
もうそのまんまにしておいてあげれば良いんです。
どんな思考ストーリーが起こっていようと、そのストーリーが起こっているのなら、起こらせておいてあげるんです。

嫌な感覚があるなら、その嫌な感覚がある場所を提供して、そこで存分に嫌な感覚をやってていいよ〜って許してあげるんです。

それがね。
そのまんまにしておいてあげるということです。
これは、言い換えると、あるがままをあるがままにしておいてあげる。ということなんです。
つまりは、あるがままに抵抗しないということでもあるんです。

するとね。
あらゆる思考のストーリーに乗っかる原動力は、「あるがまま」を許せないとしているからであり、「あるがまま」への抵抗が思考ストーリーに乗っかっちゃう原動力だったことに気づくんです。

一見、パラドックスのように感じるかもしれませんが、
あらゆる思考ストーリーを、そのまんまにしておいてあげると、幻想のメッキが剥がれていくんですよねー。

 

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