Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【無為自然】無為とは頑張らないということ

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
公園散歩が趣味のタクさんです。

なーんていうか、草木があるところって良いですよね〜。
自然のものに触れるとやっぱリラックスできます。

ま、公園は人が管理してるものや!
って言われればそれまでなんですけど、

でもやっぱり木々や草、風を感じながら木のゆらぎをみてると、
落ち着くってなもんです。

これね。
僕の仮説なんですけど、
人工物のものって全てに何かしらの「作為」が含まれているじゃないですか。

例えば、コーヒーカップなら、持ちやすいように取っ手がついていたりして、
ここを持ってコーヒーを飲みなさいっていう作為が隠れている。

ドアにはちゃんとドアの役割があり、窓には窓の役割があり、
こういった役割も作為として含まれてますよね。

そういう人工物をみていると、意識しないまでもその作為を受け取っているわけです。

この作為というのが、いわゆる「思考」であり、
この思考を働かせておくためには結構なエネルギーを消費するわけです。

なので、人工物に接すると、何かしらの思考が意識せずとも動いてしまう。
ということですね。

それが、作為のない自然の中にいると、そういった思考からも解放されるので、
エネルギーの消費からも解放され、リラックスするんじゃなかろうか??

って思うんですよね〜。

これ、
部屋の掃除や整理整頓にもつながっていて、
部屋がぐちゃぐちゃだと、それを目にするたびに、意識せずとも
細か〜い不快感を少しずつ溜め込んだりしていて、この不快感が思考を消費し、
それにエネルギーが消費されることで運気が下がるってことにつながるんじゃないだろうか?

なんてことも思っちゃったりしてね〜。
ま、僕も部屋は結構散らかってたりするんですけど。。。

さて、
そんなわけで、今日は無為自然ということをテーマに書いてみたいと思います。

 

無為自然

無為自然というのは、老子さんの言葉でして、
どういうことかといいますと、
まず無為というのは作為では無いという意味ですのでね、
思考を手放すことということなんです。

作為とは思考のことですからね〜。
それを手放しましょう。というのが無為です。

もっと厳密に言うと、思考への執着と言っても良いかもしれませんね。

そして、自然というのは、
あるがままということです。

無為になるとあるがままに立ち戻るんです。

それが、無為自然ということです。

無為とは頑張らないということ

とはいえ、無為になるのが難しい。
って感じちゃったりするもんです。

作為がないようにしよう!とは、考えないようにしよう!
と同じことなんですが、
それ自体がもう作為になっちゃうんですよね〜。

これね。
無為になろうと頑張っちゃってるということなんです。

それを逆にすればいいんです。

つまり頑張らないということです。

何が何でも頑張らない。
それは言い換えるとすべてをありのままに受け入れる。
ということなんです。

するとね〜。
無為になるんですよね。

受け入れようと頑張るんじゃないんです。
頑張らないんです。

徹底的に頑張らない。
このサボりを徹底することで作為から目覚めるってことですね〜。
すると、作為は全ての中のほんの一粒だったことを知るんです。
広大な全てが目覚めるんですね〜。

無為によってあるがままに立ち戻り、全てが目覚めるんです。

その全てがあらゆる根源であり、老子さんの言うところの道(タオ)なんです。

 

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