Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ハートで生きる

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。

ハートと聞くとデブでスキンヘッドのデッカイおじさんを想像してしまうタクさんです。
ま、北斗の拳というマンガに出てくるキャラクターなんですけどね。

出番はそれほど多くないのにやたらと存在感のあるキャラでございます。

というわけで、今日はこのハートについて書いてみたいと思います。

北斗の拳のキャラの方ではなくて、
よく
「ハートを開く」
「ハートで生きる」
みたいな言葉があるじゃないですか。

そちらのハートのお話です。

いやぁ。
ハートを開くだとかハートで生きるって
イマイチよくわからなかったりしませんか?

なに?ハートって??
心臓のこと?
心臓を捧げるって感じ?

なにそれ?おいしいの??

って感じますもんね〜。

このハートっていうのは、
感覚的なものなので心臓ってわけじゃないんですよ。

胸の奥にある感覚なんです。

 

ハートの感覚

胸が痛む。胸が痛いって表現があるじゃないですか。
なんか、胸の奥からくる感動から涙が出る。
みたいなこともあると思います。

この感覚がハートの感覚なんです。

別に僕はスピリチュアル信者ではないんですけどね。

この感覚は信じるものじゃなくて、
実際に感じ取れる感覚なんです。

そしてこの感覚から生きるということ。
それがハートで生きるという事なんです。

この感覚を感じ取ること。
そしてこの感覚を解放すること。
これがハートを開くってことなんですね〜。

ハートの解放

このハートの感覚より思考での判断が優位にある時は、
この感覚が思考によって奥に追いやられてしまっているんです。

損なのか?得なのか?
意味があるのか?ないのか?
正しいのか?間違いなのか?

といった判断や、誰かや何かと自分との比較ばかりに目を奪われている時、
思考が優位になっているんです。

そういう時は、ハートが解放されておらず、奥に追いやられている。
ということなんですね〜。

ハートに立ち戻る

そもそも僕らは、もともと解放されたハートで生きていたんです。
そこに立ち戻ろうよ。ということなんです。

子供の頃はみんなこの感覚で生きていたんです。

それがいつしか、
成績の良さや、運動ができるできないだとか、
モテるとかモテないとか、友だちが多いだの少ないだの、
学歴や、いい会社に就職することだとか、
年収や地位、より良い自分。

みたいなものに置き換わっていってしまったんですよね〜。

最初はなかったんです。
それが架空のそういったイメージを沢山盛り込むことによって、
いつしか、このハートの感覚を追いやってしまったんです。

そしていつの間にか、この思考の奴隷のようになってしまったんです。

ハートの解放

このハートの感覚を開いてやるんです。
追いやってきていた思考を手放し、胸の奥の感覚を味わうことでハートの感覚が戻ってくるんです。
すると、ここに平安があることを改めて思い出すんですよね〜。
その平安にただ在ってみるんです。

思考はあくまでも道具であり、生きる指針ではありません。
ハートからくる衝動を手助けする道具が思考なんです。

この感覚を改めて思い出すこと。
それがハートを開き、ハートで生きるという事なんです。

 

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