Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

コレは到達するものではない。私は悟れない。

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

体験してみたい生き物は鳥です。

もし、私が鳥ならば、今すぐあなたのもとへ飛んでいけるのに・・・。

なーんて言葉もあったりしますもんね〜。
やっぱり鳥って自由な感じがしますよね。

空を飛ぶ感覚は是非とも味わってみたいものです。

ただ鳥ってねぇ。
特にインコなどの小さい鳥は常にエサを食べてないと、
結構すぐに餓死しちゃうんですよね。

だから、鳥って常にエサを求めて飛んでるっていうイメージがありますもんねぇ。

となると、あなたのもとに飛んでいくよりもエサの方を求めて右往左往しそうな気もします。

皆さんはどのような生き物を体験してみたいですか??

 

マインドは波のようなもの

さて、
普段ここでは、コレだとかアレだとかの話をしておるわけですが、
コレとかアレというのは、つまるところマインドから離れたところといった感じでしょうかね〜?

実際は距離なんてものもありませんので、全てはココに在るわけなんですがね。

僕らは普段、マインドに操られて、あっちに行ったりこっちに行ったりしているんです。
そして、マインドの中の苦楽に翻弄されて落ち着きがなくなっちゃってるんですよね〜。

このマインドの中心には「私」がおりまして、この「私」もまたマインドの波にさらされて、あっちこっちに揺れ動いているわけです。

このマインドの中の「私」というのは、本来の私を何かしらの枠に囲ったものなんです。
この枠というのが、いわゆる仮面であったり役割だったりするわけです。

そして、このマインドから離れることで、本来の私に戻ってくることが出来るわけですね〜。

あらゆる「枠」は存在しない

もちろんね。
本来の私とか嘘の私なんてのもいなくて、枠に囲われた「私」の、
この「枠」が存在しないということなんですけどね。

マインドはすべてのものに「枠」を設定しないと掴み取れません。
なので、「枠」に依存しない私をあえて、本来の私と言っているわけですが、
では、本来の私って何?と聞かれると、なんでも無いもの。としか答えようがないんです。

なぜなら、「何?」という質問は、言い換えると「どんな枠なの?」ということになりますからねー。
枠がない=なんでも無いもの。
となっちゃうんです。

コレは到達するものではない

でね。
そう聞くと今度は、
そんな「枠」であるマインドを超えて、本来の私に到達するにはどうしたら良いのか?
って思っちゃうじゃないですか。

でもこの場合って、
枠に囲われた「私」をマインドを超えて本来の場所に到達させよう!としちゃってるわけなんです。

ですが、それは不可能なんですよね。
「枠を保ったまま、枠から外れようとする。」
みたいなものですからね〜。
矛盾しているんです。
靴を履きながら裸足になる。みたいなものですからね。

だから、

「コレというものは到達するものではない。」
「あなたは今、そのまんまでコレである。」
「すでにあなたは真我そのものなんです。」

なんて言われていたりするんです。

そして、そう聞くと大体は、
「でも、そうは思えない・・・」
って思っちゃうわけです。

「私」は悟れない

この「そう思えない」ってやつもね。
いわゆる「真我」のイメージと今の「私」のイメージがかけ離れているからなんですよね。
なので、この「枠に囲われた私」の枠をなんとか「真我」の枠に置き換えようとしちゃうんです。

これもうまくはいきません。
なぜなら、「真我」とは、枠のなさをあえて言葉で表現しているものに過ぎないからなんです。

だからね〜。
コレってどこかへ到達するって話じゃないんです。

ただただ、マインドから離れてみるしか無いんです。
マインドとは無数の観念の集合体みたいなものですから、あらゆる観念から離れてみるんです。

「私」もまた観念の一部です。なので、この「私」からも離れるんです。

 

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