Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

比較お化けにだまされるな!

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はじめに

はーい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさんいい気分でしょうか?

気分にいいとか悪いをつけないでいると、
もうどんな気分もいい気分になっちゃいますね。

晴れてよし曇りてもよし富士の山

ということでねー。

いいも悪いも決めなければ、元々の気分はいいものです。

僕らがハマる心の病の元。
それは比較です。

マインドはね。
比較の概念を使って、世界を掴み取る機能なんですけどねー。
この比較をあまり自分に当てはめないこと。

これって結構大事なんですよね。

「あー!比較の概念に自分を当てはめてるー!」
って感じたなら、もう、怪しいダンスでも踊って振りほどいてやればいいと思います。
自分を比較に当てはめること。
これが、自分を過小評価しだすきっかけになりますからねー。
そういうときは、怪しいダンスに限ります。

なんせ、怪しいダンスは恥ずかしいですからね。
そして、アホらしいですから、もう比較なんかしてる場合じゃないですからね。

ダンスが恥ずかしい場合は、いい方法があります。

今は、みんなマスクをつけていますよねぇ。
これを利用してね。

マスクの裏で、変な顔をするんです。
街中でやる事をオススメします。

アホらしくなって、比較の概念が飛んでいっちゃうこと請け合いです。

ーー

作られた自分

僕らはねー。
「自分」というものをマインドで作るわけなんですけどね。
最初っから「自分」というものを作るわけじゃありません。
最初に、何かしらの枠を作るんですよね。

そして、その枠に「自分」という概念を当てはめるんです。

この枠は、その時に頭の中で作られるストーリーによってコロコロと変わります。
だから、確固とした「自分」の定義って無いんですよね。

ある時は、身体であり、
またある時は、心情であったり、
はたまた、持ち物だったり、
容姿だったり、地位だったり、

と、自分につけられる定義というレッテルはその時々によって変わるんです。

定義という枠

最初にねー。
定義という枠を作るわけですが、この枠というのはあくまでも想像上の枠ですので、実体はないんですよね。
でも、この限りある枠に当てはめることによって、自分というのはとっても不安定な状態にさせられてしまうんです。
そして、この限定された「自分」という枠がね。
比較の概念にさらされる時、僕らは危機感を感じてしまうんですよね。

この危機感は、ちゃんと体の反応として感じられます。
まさに、演出された概念に体が反応しちゃうといった感じですね。

この危機感が、心や体にイヤーな感覚を演出しておるというわけです。

そして、それを払拭するために、自分という枠をなんとかより良いものにしようと奔走するわけなんですけどね。
これがうまくいかない時に、
「どうすればいいんだー!」
ってなっちゃうんですよね。

枠が不完全なのは当たり前

最初に限定された枠を作って、それに自分を当てはめるんですから、
そりゃー、その自分という概念は不完全で当たり前なんです。
なので、そんな自分を責めるのは的はずれなんですよね。

だから、そんな自分を責めずに、逆に褒めてあげればいいんです。

「落ちこぼれでも、今日もちゃんと息をしていてエライ!」
てな感じでね。

それが、比較の概念というお化けにばかされないコツなんです。

そして、どんな自分もありなんだーと知ることが、
自分という枠ってホントはないんだねーということを見破る扉を開いてくれるというわけです。

 

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