Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ストーリーの「とがき」から、「私が」を取ってみる。

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はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

世界中の神話の中には、結構巨人伝説って多いんですよね。
なぜか巨人が出てくるんですよ。

ギリシャ神話や北欧の神話にも巨人が出てきます。

ヨーロッパの場合は、大体その巨人が元々の世界を作った神で、
その神からいわゆるゼウスなどの人間サイズの神が生まれて、
それで、人間も誕生する。

みたいなパターンが多いんですけどね。

大体はその巨人は後から生まれた神に滅ぼされるんですよね。
ギリシャ神話しかり、北欧神話しかりね。

ちなみに日本の神話にも巨人は出てくるわけですが、
日本の場合は、人間と仲良しみたいなパターンが多いんです。

僕ねー。
コレってもしかしたら、僕らホモ属とネアンデルタール人の関係が神話化してるんじゃなかろうか?
なーんてね。
そんな気もしてるんですよねー。

ヨーロッパでは、ネアンデルタール人とホモ属は思いっきり戦いまくってるんですよね。
ネアンデルタール人は個々では僕らホモ属よりも賢くて体も大きくて強かったらしいんですよね。
なので、最初は全然勝てなかったらしいです。

ですが、チーム戦になると、僕らホモ属の方が大軍を作ることができて、打ち勝つことができたらしいんですよね。

ちなみに、日本ではそう言った争いはなかったそうで、それなりに仲良くしてたらしいんです。

まーでも、今残ってる歴史って、せいぜい5000年くらい前のものでしかないわけですが、
ホモ属とネアンデルタール人が同じ時代を生きた期間って、数万年あるわけですからねー。

それを思うと、いろんな物語もあったんやろうなぁ〜。
なんて思います。

ちなみに交配もしてたらしいので、僕らのDNAの中にもちょこっとネアンデルタール人のDNAがのこってるそうです。

さてさて、ちょっと前置きが長くなりましたが、
今日はそんな物語、ストーリーについて書いてみたいと思います。

 

ストーリーを作る能力

さてさて、僕らはあらゆることをストーリーというものに形を変えて理解をする。
みたいなね。そんな能力を持っております。
ですが、ストーリーに変えたことによって元々の加工前の「それ」を見逃してしまっているんですよねー。
元々のそれというのは、加工前の気づきそのものです。

そんな気づきが音に気づき、それを音とみなし、音に意味を与え、音を聞いている私という存在を作る。
ここで、思考は「私が」聞いたんだと理解し、音について快か不快かの判断をし、
私にとってこの音は好きだとか嫌いだとかのストーリーを作り上げる。

みたいなね。
多少前後の違いはあるでしょうけど、そんな感じでストーリーを作り上げるわけです。

そして、そのストーリー化の過程で、「私」という概念も作られるわけですが、
その「私」という概念に、元々ある存在を詰め込んじゃうんですよね。

僕らが感じている、私という感覚は、元々の存在の感覚そのものなんですが、
それを「私」という枠にはめ込んで、私とそれ以外という世界観を、
私の中でつくりあげているんですねー。

ここで、ダイレクトな気づきが、まるで無いもののように扱われているわけです。

存在が全て

元々のダイレクトさ。存在。気づき。
これに意味が加わらないと、僕らはそれを思考のストーリーに加工することができませんのでね。
どんなものにも意味があるという思い込みを持っているんですよね。
ですが、その意味はある種の枠に相当しますので、
この枠のせいで、僕らは自由を奪われているという側面もあるんです。

そんな元々の気づきに意味というスパイスを加えず、ただダイレクトなままに在ってみると、
全てはただ在る。
存在しかない。
この存在が全てだということを知るわけです。

枠は存在しない

この存在は、どんな枠にもおさまっておりません。
まさに全てなんです。

だから、私が存在なのではありません。
私という枠さえ、存在はおさまっていないんですよね。

ただ、コレを理解しようとすると、どうしても何かしらの枠にはめなければならないので、
理解された存在は存在ではなくなっちゃうわけですねー。

思考では「私はいない」は理解できない

僕らが、
何かを聞いていたり、
何かを味わっていたり、
何かを見ていたり、
何かを感じていたりしている時、

当たり前のように、私が聞いている。
私が味わっている。
といったように感じているかもしれません。

もちろん、二人で食事をしていて、相手はラーメンを食べていて、自分はチャーハンを食べているんだから、当然、私だけがチャーハンを味わっている。
ってねー。
僕らは当然のこととしてそう思っているわけです。

そして、この理屈があるからこそ思考がうまく働くわけであって、
この理屈がある限り、思考は決して「私」から抜け出すことができないんですよね。

なので、思考では「私はいない」は理解できません。

ストーリーの「とがき」から、「私が」を取ってみる。

ですが、僕らはいつでも「私はいない」を感じることはできるんです。
僕らが感じていること。そこには理屈は存在しません。

理屈は全て頭の中の仮想イメージの中にしかありませんし、それは実体のあるものじゃありませんからねー。

だからね。
たまには、僕らの頭の中にあらわれているストーリーから、「私が」を抜いてみたらいいんです。

私が聞いているのではなく、ただ、聞いている。
私が味わっているのではなく、ただ、味わっている。
私が見ているのではなく、ただ、見ている。
そして、私がを感じているのではなく、ただ、感じている。

すると、目の前の世界は対象では無いことに気づくかもしれません。
全ては、一緒であり、一体なんですよねん♪

 

takuteto.hatenablog.com

 

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